実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編37

ソ連がアフガン侵略
共産党は10日も沈黙

 

亡命者カルマルを担いで傀儡政権
 宮本顕治委員長を団長とする日本共産党代表団がモスクワにソ連共産党を公式訪問しブレジネフ書記長と会談、「15年間の干渉問題を原則的に解決した」(共産党)として日ソ両共産党関係正常化を果たしました。宮本委員長らが意気揚々と成田空港に着いたのが1979(昭和54)年12月24日のことでした。
 それから1週間も経たない暮れも押し詰まった12月30日早朝、ソ連地上軍5個師団(約4万人)が突如、アフガニスタン国境を越え同国に侵略を開始したのです。
 ソ連はすでに25日頃から兵員と軍事物資を大量にアフガニスタンの首都カブールに空輸。27日にはソ連の軍事介入に反対するアミン政権を打倒するクーデターを起こさせました。ソ連のカイライ政権を樹立するためにブレジネフ書記長はカルマルという人物を亡命先の東欧から担ぎ出し、アミン政権にかえてカルマル・カイライ政権を樹立させたのです。
 そして、ソ連は「対外侵略からアフガニスタンを守るために同国の指導部の要請により、両国間の善隣協力条約に基づいて軍事介入したのであり、国連憲章第51条の個別的、集団的自衛権の発動である」として軍事介入したのです。
 つまりソ連は日本共産党との関係正常化と並行してアフガン侵略を進めていたのです。
 ソ連のアフガン侵略に対して共産党は実に10日間も沈黙し正式見解を出せませんでした。ようやく80年1月10日、共産党中央委員会常任幹部会は「アフガニスタンの事態について」と題する声明を発表します。
 同声明はソ連の軍事介入を民族自決擁護の立場から非難していますが、その一方で「アメリカをはじめこれまで外部から反政府反乱組織を支援してきた全ての関係諸国に対してこれらの干渉行為から、ただちに手を引くべきことを主張する」と述べ、ソ連の侵略の責任を曖昧にしています。

考えた挙げ句に責任曖昧なソ連批判
 共産党が10日間も沈黙せざるをえなかったところに同党の苦しい立場が見られます。せっかく15年ぶりに関係正常化したのだから今後もソ連共産党とは反米で共闘したいという思惑と、ここでソ連の侵略を擁護すれば日本国民に総スカンをくらってしまうという板挟みです。
 そこで共産党は考えたあげくにソ連非難の声明を出すわけですが、それは日本国民向けの表向きのものにすぎません。
 この声明が発表されるまでの間に『赤旗』では、カルマル政権が「アフガニスタン転覆をはかる外部勢力の脅威をはね返す為」にソ連に援助を要請したとか、ソ連が軍事協力条項をもつ善隣協力条約に基づいて軍隊を派遣したとか、さかんにカルマル政権とソ連擁護を行っていました(『赤旗』1月8日付)。
 ここで注意しなければならないのは、12月の日ソ共産党会談でソ連側が日ソ善隣協力条約の締結を日本に提案するので日本共産党がこれを支持するように求めていたことです。同条約案第5条には、ソ連アフガニスタン善隣協力条約の軍事協力条項とそっくりの内容があるのです。
 ソ連・アフガニスタン善隣協力条約第四条「両国の安全独立及び領土保全の確保を目的として協議し、双方の合意により適当な措置を取る」
 日ソ善隣協力条約(案)第5条「双方の意見によって平和維持に危険とみなされる情勢が発生した場合もしくは一方による平和の侵犯の場合、情勢改善のために何が可能かについて意見交換する目的で、即座に相互に接触し合う」
 接触し合った後に何があるのかは明記していませんが、いずれにせよソ連はアフガン侵略の根拠とした軍事条項にうり二つの条項を日本と結ぼうとしているのです。
 これに対して宮本委員長は「ソ連側は善隣協力条約という提案を今までもしている。われわれにはソ連のあの条約案を全部承認するというわけではないけれども、そういう中間的な条約を歯舞、色丹の返還問題と合わせて協議すべきだ」と「好意的な再検討」を表明しています。
 アフガン侵略後も共産党は、ソ連従属姿勢をかえませんでした。