実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 21
チェコ事件に動転
北朝鮮と関係を強化
「自主独立」でもソ連と関係修復

 自主独立路線を採ったといっても共産党はなにせ、コミンテルン日本支部として創立された組織です。国際共産主義との関わりを完全に断ち切って日本国の共産党になったわけではけっしてありません。
 たとえば、ソ連との関係もすぐに修復しています。日本共産党が中国共産党と決裂すると、ソ連はそれまで社会党を通じて辛うじて日本への窓口を確保するのが精一杯でしたが、一転してスースロフ書記を団長とする大型代表団を日本に送り、共産党との和解を求めてきました。
 これに宮本書記長は飛びつきます。会談は代々木の共産党本部で行なわれ、両党の関係の「正常化」が成立したことを示す共同コミュニケを発表しました。その結果、ソ連に忠誠を誓った志賀義雄らのグループ(「日本のこえ」と名乗っていた)をソ連はそでにし、直接、共産党と手を結ぶことになります。
 しかしソ連が訪日の中心目的としていた、国際的なソ連派まき返しのためのブカレスト世界共産党会議への招待については、宮本書記長はにべもなくはねつけました。ソ連に完全に肩入れするのではなく、自分の立場を高く売りつける、そして国際共産主義における共産党の存在感を増そうとういうのです。
 これは当時の北朝鮮の立場とそっくりです。北朝鮮はソ連からは軍事支援を受けつつ中国からも経済支援を受けて中朝関係を強めてきましたが、共産党と同じく文革についていけずに徐々に中国と距離をとり、主体思想を口にし始めます。共産党の自主独立路線と北朝鮮の主体思想路線は中ソ対立を背景にした周辺の共産党としての生き残り戦術だったわけです。
 そこで68(昭和43)年8月、宮本書記長は北朝鮮を訪問しますが、その最中の同年8月21日、ソ連がチェコスロバキアに不法侵略を行なうというチェコ事件が勃発します。ところが共産党はこれに対する見解が出せず、実に四日間も沈黙を続けることになります。宮本書記長が不在だったためにどう対応したらよいか、わからなず動転したのです。このことは共産党がいかに宮本独裁であるかを端的に物語っています。
 それにソ連とは関係正常化したばかりなので、共産党幹部たちの間にソ連への未練があったことは否定できません。共産党の自主独立路線とはけっして国際共産主義とは無縁のものではないのです。
 ようやく8月25日付の赤旗でソ連のこの行為は「兄弟党の内部問題不介入」という原則に著しく反するものとして非難し、軍隊の撤退を要求するなど強硬な態度を示しました。
 ソ連のチェコ武力侵入以後、世界の共産党はソ連派、中国派、チェコ支持派、中立派と四分五裂となり、共産党の孤立は一段と深まったといえます。この時点で日本共産党が一番信頼していたのは、北朝鮮です。日本には20万人の朝総連が北朝鮮の「前進基地」としてあり、共産党は北朝鮮・金日成との関係だけは切らず、きわめて親密に友好関係を築こうとしたのです。

70年安保闘争 狂気の時代へ
 こうした中で、共産党は70年安保闘争を激化させてきます。共産党は反安保を目指して、党直属の日共系全学連(民青)を支援して闘争強化に取り組みを強めます。一方、すでに共産党とたもとを分った別の共産主義集団も動き出します。民青の別派(共産同)を立てるようになった「革マル全学連」、さらにそこから派生してきた三派系など、共産主義者たちは思い思いに離合集散し、反安保闘争に臨んでくることになります。
 日共系全学連も各派全学連も目指すのはひとつ、日米安保条約粉砕です。組織的には対立していても思想面では一致しており、そして安保粉砕はソ連と中共、北朝鮮が一致して願っていることです。明らかに国際共産主義運動の一環として70年安保闘争があったことがわかります。
 こうして70年安保そしてそれに続く共産主義の狂気の時代が始まることになります。