実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編47
裁判闘争から逃避
勝共連合に“敗北”する

 共産党は自らの都合の悪い言論に対して、しばしば組織動員をかけて抗議行動を展開し、それが聞かれないときには共産党系弁護士を総動員して裁判闘争で“言論潰し”に当たります。70年代によく行われたことは本連載で紹介したところです(第44回)。

10年以上に渡るリンチ言論裁判
 そうした裁判でとりわけ注目を集めていたのは共産党と国際勝共連合の間で争われていた「日共リンチ殺人事件言論裁判」です。同裁判で共産党は昭和63(1988)年12月26日、自ら起こした訴訟を取り下げるという異例の措置を取り、世間を驚かせました。これは「宮本リンチ殺人」の事実認定を恐れたものとされます。共産党は勝共連合との争いでは裁判闘争から逃避し“敗北”したといえます。
 この裁判の起こりは78年6月にさかのぼります。国際勝共連合が宮本顕治委員長らが引き起こした「日共リンチ殺人事件」について報じた機関紙「思想新聞」(78年6月18日付)を東京・立川市内で配布したところ、共産党は同6月17日、東京地裁八王子支部に配布禁止処分を請求(本訴)。東京地裁八王子支部は勝共連合に対して何ら審尋することなく判定を下し、配布禁止処分を執行しました。
 このため勝共連合はこれを不服として起訴申し立てを行い、その結果、「日共リンチ殺人事件言論裁判」が始まったのです。したがって実に10年以上にわたって東京地裁八王子支部で「言論裁判」がくり広げられてきたことになります。
 裁判では共産党は宮本委員長のリンチ殺人事件は「デッチ上げである」との主張をくり返しました。79年9月の法廷では宮本委員長の証人申請をして委員長自ら法廷で証言するとの姿勢まで見せました。ところが、86年にはこの証人申請を取り下げてしまいます。
 なぜ、取り下げてしまったのでしょうか。それは勝共連合が裁判で宮本委員長有罪の確定判決という明確な資料を提示したからでしょう。
 すでに述べましたように、宮本委員長は1933(昭和8)年、同志の小畑達夫をスパイとしてリンチを加え、死亡させたうえ、床下に埋める事件を起こし、その後、逮捕されて裁判となり1944(昭和19)年12月5日に上告が棄却され、傷害致死罪などの判決が確定したという歴史的事実が存在します。
 ところが共産党は47(昭和22)年12月に勅令第730号によって政治犯として釈放され、こうした判決はなかったことになっていると強弁したのです。たしかに当時、連合軍司令部(GHQ)は政治犯釈放の勅令を出していますが、宮本委員長はまぎれまもく傷害犯等の複合犯です。ですから本来、この勅令によって釈放されることがないはずなのに、どういうわけか釈放されたのです。後に袴田元副委員長は、網走刑務所長の間違いで釈放されたと述べています。
 44年の確定判決書の白紙部分には「将来ニ向テ其ノ刑ノ言渡ヲ受ケザリシモノト看做ス」などと墨字で書かれていますが、これは誰がいつ、いかなる権限で書いたのかまったく不明です。
 そこで勝共連合は裁判を通じてこの欺まんを明らかにしましたが、共産党はついに宮本委員長の証人申請を取り下げてしまったのです。そればかりか、この訴訟の判決を目前にして訴えそのものを取り下げたのです。

確定判決への確認を恐れる
 それは裁判所が裁判所自身による確定判決をくつがえせるわけがないからです。そんなことをすれば、裁判所自らの自殺行為であり、法が死んでしまいます。だから確定判決の事実認定をすることは間違いありませんでした。すると、共産党が「特高のデッチ上げ」と言い続けてきた主張がすべて崩れ去ることになります。だから、共産党は本訴を取り下げてしまったのです。
 こうして共産党の裁判闘争による“言論潰し”は大きく後退し、以降、こうした裁判闘争は陰を潜めました。