実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 8
中核自衛隊を組織
子供も襲撃対象におびただしい数の争乱を画策

「五一年綱領」を採択して軍事路線をひた走る共産党。その地下組織で軍事革命の総指揮を取っていたのは、軍事委員長の志田重男でした。彼はまず、1951(昭和26)年の10月から年末にかけて、各地域に「中核自衛隊」と称する暴力組織を設置しました。
 この組織には8千名にも上る党員が加わったといわれます。その連絡には、『内外評論』『球根栽培法』などという偽装名の非合法機関誌が用いられました。
 これらの非合法誌を年代順に並べてみると、共産党の裏面史が手に取るようにわかります。
 たとえば、50年10月12日発行の「味の枠・・たべある記」と表記された『内外評論』特別号には、「共産主義者と愛国者の新しい任務・力には力をもってたたかえ│」と軍事革命の必要性を説き、その後の党の軍事活動方針の基礎づけが与えられています。また『球根栽培法』には五全協で中国共産党から新たに押しつけられて決定されたといわれる「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」という軍事方針の細目が記載されています。
 その他、『工学便覧』『栄養分析表』『料理献立表』『Vノート』などという秘密文書が続々と出され、火炎ビン、時限爆弾などゲリラ用の武器の製造方法が詳細に説かれているのです。
 これらの文献は後に極左過激派が利用し火炎ビン闘争などを繰り広げたことはよく知られたところでしょう。
 こうして51年末から52(昭和27)年夏にかけて、地下の共産党の指導のもとに、おびただしい数の騒乱が発生することになります。その主なものは次のようになります。
 (1) 警察襲撃・殺害事件・・▽練馬署印藤巡査殺害事件(51・12・27)▽札幌の白鳥警部射殺事件(52・1・21)▽蒲田署警官襲撃事件(同2・21)▽荒川署警官襲撃事件(同2・28)▽板橋岩之坂交番襲撃事件(同5・30)▽新宿駅東口交番火炎ビン事件(同6・25)
 (2) 山村工作隊関係・・▽田口村工作隊事件(52・2・4)▽小河内山村工作隊事件(同4・6)▽曙村山林地主襲撃事件(同7・30)▽金田村農村工作部隊事件(同3・17~8・8)
 (3) 騒擾事件・・▽皇居前メーデー騒擾事件(52・5・1)▽新宿駅流血事件(同5・30)▽吹田騒擾事件(同6・24)▽大須騒擾事件(同7・7)
 (4) その他・・▽東大ポポロ事件(52・2・20)▽横川元代議士襲撃事件(同8・7)
 これらはいずれも残虐きわまりない事件です。たとえば山梨県の曙村山村工作隊の事件では、地主一家の寝込みを襲うと、主婦や女中をはじめ3人の小中学生(最年少は9歳)までもめった打ちにし、額を叩き割って瀕死の重傷を負わせています。

山村工作隊の襲撃事実を裁判でも正当化
 当時、この地主一家を救うために出動した地元警察の細井吉寿巡査は次のよう証言しています。
「懐中電灯を照らしながら奥の間に入ると、東京から夏休みで来ていた親戚の小、中学生3人が血だらけになって震えていた。布団や畳の上は血痕が飛び散り土足で踏み荒らされ、3人のうち最年少の9歳の子の前額部は割られ瀕死の重傷である。枕の周囲は血糊がべっとりと着いており、その子の姉である14歳と12歳の女の子が自分の傷もかえりみず健気に弟の傷に布を当てながら看病している姿をみたとき、鬼畜にもまさる日共党員のやり方に署員一同義憤し切歯扼腕した」(警察庁警備局『回想』より)
 この曙山村工作隊を組織したのは日本共産党山梨県委員会で「民族解放民主統一戦線を結成するため、曙村を支配する山林地主の山林解放」を掲げて、山村工作隊十人が襲撃したものです。
 工作隊員10人はその後逮捕されましたが、裁判では解放闘争の正当性を主張するばかりで何ら反省することはありませんでした。しかし最高裁は69(昭和39)年1月に懲役2年から8年の有罪判決を下しています。
 いまだ共産党はこうした非道な行為への謝罪を行っていません。
 
※写真=皇居前でメーデーに警官隊を襲撃した事件も