勝共思想・勝共理論

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42,マルクス経済学・17 幻想に終わった共産主義社会

マルクス経済学・17
[ポイント]資本主義を革命によって葬った後、社会主義社会の過渡期を経て共産主義社会に至るというのがマルクス経済学の見解でした。しかし、その過渡期である社会主義がいかに架空のものであり、かつその実態がいかに悲惨なものであったかを前回、ソ連の七十年の歴史で見ました。にもかかわらず、この間、為政者(共産党)は「社会主義が達成され、間もなく共産主義が到来する」とユートピアを語り続けてきたのです。その時期については権力の座についた指導者の都合に合わせて、くるくる変わってきました。マルクスの理論とは全く逆に上部構造が下部構造を規定しているかのように、です。今回は為政者によって社会主義と共産主義がどう描かれたかを探って見ます。

幻想に終わった共産主義社会


■その実態
 まずソ連の為政者は、社会主義と共産主義到来の時期をどう語っていたのでしょうか。
 レーニンは社会主義社会を作ろうとする道半ばで死亡(1924年)、それを引き継いだスターリン(~53年)、フルシチョフ(~64年)、そしてブレジネフ(~82年)は図のように位置付けました。
 3人ともいずれも革命の17年から36年までを「資本主義社会から社会主義社会への過渡期」と位置付け、36年を社会主義的生産関係が成立した年とします。それ以降は「社会主義から共産主義への過度期」(社会主義期)とするのです。
 マルクス理論では資本主義の後は社会主義と共産主義への二段階でしたが、スータリンらは革命を起点に資本主義から社会主義への過渡期、社会主義から共産主義への過渡期、そして共産主義社会へと三段階に分けました。
 そして36年に社会主義が成立し(当時はスターリンによる大粛清期。皮肉にもフルシチョフもこれを認めている)、その後、いよいよ共産主義を目指すことになるわけですが、それ以降の見解は三人で違ってきます。スターリンは52年に共産主義的生産関係が成立したとしました。彼はこの年、『ソ連邦における社会主義の経済的諸問題』を公表し、その中で「真の共産主義の時代」への移行、つまり「歴史の終末点」が到来し、完全な「豊富の世界」、マルクスが言う「千年至福の王国」のユートピア到来の時が現実に近づいたと宣言したのです。
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 しかし翌年(53年)にスターリンが死ぬと、後を継いだフルシチョフはスターリン批判(56年)を展開します。彼は五七年に「1980年までにソ連はマルクスが夢みた共産主義の入り口に発つことになろう」(57年八月「プラウダ」)とぶちあげました。
 さらにフルシチョフは59年のソ連共産党第21回大会で、ソ連における「社会主義の完全かつ最終的勝利」を宣言し、ソ連が「共産主義の展開的建設期」へ移行したといいました。
 なんともややこしい見解ですが、図にあるようにフルシチョフによれば、36年から59年までは発達した社会主義建設期、そして80年までを共産主義建設期(共産主義ではありません)とし、80年には共産主義に移行するとしたのです。つまりスターリンの社会主義期をさらに二つに分けたわけです。
 ところが64年にフルシチョフが失脚しブレジネフが登場すると、この見解はさらに変えられます。
 ブレジネフはフルシチョフの楽観的展望を批判し、「発達した社会主義論」を打ち出します。それによるとソ連は未だ「社会主義の完全かつ最終的勝利」には至っておらず、発達途上にあるとするもので、71年(第24回党大会)までは「発達した社会主義の建設期」とし、この年からいよいよ「発達した社会主義」に入ったとしました。
 つまりフルシチョフが位置付けた「共産主義の建設期」という共産主義の文字が消えてしまい「発達した社会主義」に修正されてしまったです。では、いつ共産主義的生産関係が成立するのかというと、ブレジネフはついに明言することはありませんでした。
 ブレジネフの死後、ソ連を実質的に継承したのはゴルバチョフですが、彼はついにマルクスの理想の放棄を意味する「ペレストロイカ」に着手し、九〇年代についにソ連が崩壊したことは周知のとおりです。
 ここからも明らかなようにスターリン、フルシチョフ、そしてブレジネフと時代が進めば進むほど、マルクスが理想とした共産主義社会は近づくどころか、かえって遠のいていったということです。そしてついにゴルバチョフはその理想を捨て去り、後にロシアの人々は自らの手で共産主義の理想を葬り去ってしまいました。
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 では、中国はどうだったでしょうか。
 1949年のいわゆる中国革命(中華人民共和国成立)は、社会主義革命とは解釈されていません。レーニンの規定した「民族闘争」は二段階革命をとっており、その第一段階の民主主義革命ではインテリやブルジョアと統一戦線を組んで外国勢力を一掃、その後に労働者と農民のプロレタリアートによる社会主義革命がなされる、としていたからです。中国革命は前者の革命とされたのです。
 当時の中国人民の大半は農民で、インテリやブルジョアはほとんど育っていません。また、中国共産党は第2次大戦の終了以前は、延安を拠点に農民を基盤に反日闘争を進めていたので、本来の民主主義革命とは様相が違っています。そこで共産党は四九年の中国革命を「新民主主義革命」と呼びました。
 レーニンの規定によれば、民主主義革命の後に社会主義革命が到来します。これが建国以降、社会主義革命を必然とする主張を生み、反右派闘争や大躍進運動、さらに文化大革命などを招来せしめ、 小平が「改革・開放」路線を定着させるまで、政策が左右に揺れる不安定な歴史を刻む原因となりました。
 毛沢東は新民主主義社会建設期(49~52年)を経て、社会主義への移行期(53~57年)に入ったとします。この間、農民に対してはソ連のネップがそうだったように当初、土地改革によって3億人の農民に土地を分配(おそるべき零細農民が出現した)、その後、大躍進運動の集団農場化(すなわち人民公社化)で再び土地を奪い取り、毛沢東は「社会主義建設をはやめ逐次共産主義に移行する」と宣言しました。
 工業面では中ソ対立の影響でソ連式の重工業建設が行き詰まったので「自立更正」の名の下に全農村に小型土法炉が作られ大製鉄運動が行われますが質の悪い粗鋼しかできず失敗。飢餓が発生する悲惨な末路を辿りました。
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 そこで劉少奇―?ケ小平が「調整政策」と呼ばれる現実路線を敷きますが、これに反発した毛沢東が文化大革命を発動し大混乱に陥り、二人は失脚。文革が終息した後も江青ら「四人組」によってイデオロギー路線が継続されますが、七八年に?ケ小平が復活して現在に至る「開放・改革路線」を打ち出しました。
 現在の中国は87年10月の中国共産党第13回党大会で発表された「社会主義初期段階論」の延長線上にあるといえます。それは「生産力の発展の欠いた社会主義は空論であり“左”よりも重要な誤り」とし、あくまでも生産力の発展を期し、社会主義市場経済論を唱えるものです。
 99年の全人代(国会)で憲法が改正され小規模の私営・個人企業といった「非公有制経済」がこれまでの「社会主義の補完」から「社会主義市場経済の重要な構成部分」に格上げされました。
 中国ではプロレタリアート独裁(共産党独裁)は残しつつ、生産手段の社会化や計画経済は捨て去られつつあります。これはもはや社会主義初期段階というよりも社会主義の放棄段階といったほうがよいでしょう。
 こうした「体制改革」は社会主義そのものを否定するものであり、生産力がいくら発展しても社会主義には至らず、ましてや共産主義などあり得ません。中国ではマルクス経済学は事実上、ゴミ箱に入れられてしまっています。