勝共思想・勝共理論

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41,マルクス経済学・16 ソ連が証明した社会主義の破綻

マルクス経済学・16
ソ連が証明した社会主義の破綻
[ポイント]マルクスは搾取のない理想的な社会すなわち共産主義社会に至る過渡期として「社会主義」を設定しました。この社会では?@プロレタリアートの独裁?A生産手段の社会化?B経済の計画化を推進することによって「各人はその能力に応じて働き、その労働に応じて受け取る」という社会が生まれ、さらに生産力が発展すると「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という理想郷すなわち共産主義社会が登場するとしました。では、実際はどうだったでしょうか。マルクス理論を実践した旧ソ連では、人民はツアー時代以上の辛酸を舐めることになりました。そしてついに破綻してしまったことは世界の人々の知るところです。今回はソ連の実態を探ってみます。

■その主張と実際
 ソビエト連邦のソビエトとは、ロシア語で会議という意味で最初につくられたのは日露戦争の1905年革命の時ですが、17年のロシア革命期に各地に組織されて、ソビエトの名で革命が遂行されました。
 レーニンがトロツキーらとともに武力でロシアを打倒すると(17年11月革命)、さっそくプロレタリアート独裁という名のもとに共産党一党独裁政権が樹立されたのです。そしてマルクス経済学に則って生産手段の社会化を始めました。
 社会化とはいったい何でしょうか。従来、資本家階級が所有していた生産手段を労働者階級のものにしようというのが社会化です。といっても労働者階級が私物化するのではありません。労働者みんなのものというので社会化と表現するのですが、みんなのものといっても結局、それは労働者階級を代表するプロレタリアート政権のものに帰属します。つまり社会化は国有化を意味していたのです。
 では、プロレタリアートの政権とは何でしょうか。それは労働者階級の「前衛」である共産党が権力を握る政権です。その独裁というのですから、ソ連は「階級なき社会」を目指すと口で言いつつ、実際に社会主義の主人となったのは労働者階級でなくて共産党だったことになります。それも共産党の幹部が特権階級となり、彼らが一般労働者はじめ人民を支配する「新しい階級」をつくりあげていったのです。
 こうしたプロレタリアートの独裁の名の下に、特権階級と一般人民との間の富や権利の不平等は定着し、労働者・農民は半永久的に(ソ連政権が崩壊するまで)、「奴隷的従属関係」の下につながられるようになりました。つまり、生産手段の社会化とは、実際は労働者の代表を自称する「新しい階級」によるところの官僚主義的な経済支配を意味していたといえるでしょう。
 このことについてユーゴスラビアの元副大統領ミロバン・ジラスやチェコスロバキアの元副首相オタ・シクは、自ら社会主義政権で体験した生産手段の社会化・国有化の実態を次のように語っています。
 「物財は次第に国有化されたが、実際には党のはっきりと識別できる層とそのまわりに結集した官僚が、これらの物財を使用し、享楽し、分配する権利を通じて、自分たちの財産にしてしまったのである」(ミロバン・ジラス『新しい階級』)
 「発端には、国家は急速な工業化のためにいっさいの投資を統制する目的で、生産手段をのこらず手中におさめる。最後には、一層の経済発展はもっぱら支配階級の利益のために行われるようになる」(同)
 「国有化は厳格な意味で社会主義とはならず、官僚主義化にほかならなかった。労働者は資本主義社会におけるよりもっと生産過程で疎外された」(オタ・シク「日本での講演」1972年4月)
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 生産手段の社会化の中には「農業の集団化」も含まれています。
 レーニン治世下ではそれができませんでした。ソ連経済が14年から4年間の第一次大戦、そしてその後の3年間の内戦によって破綻状態にあったからです。なにせ大戦前と比較して工業生産は13%、農業生産はほぼ半分に落ち込んでおり、共産党に反発する農民反乱も後を絶ちませんでした。ソ連を安定させるには従来のマルクス主義から多少逸脱しても人口の圧倒的部分を占める農民を味方につけなくてはならず、譲歩せざるを得なかったのです。それが21年のネップ(新経済政策)です。ネップによって農民は土地の自由耕作を認められ、一定の食糧税を納めた後での農作物の自由処分も認められました。
 しかし、レーニンの後継者であるスターリンはネップをやめ本来の社会主義を目指して農業集団化に着手します。1928年のことです。この年、権力闘争に勝利した(トロツキーらを追放)スターリンは一国社会主義論の工業化を掲げて第1次5カ年計画をスタートさせ、同時に農業集団化を始めたのです。
 当時の農業は個人農がほとんどを占め(耕作面積で97.3%)、コルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)はわずかでした。しかもネップでも生産向上はほとんどなく、破綻状態が続いていました。スターリンは集団農場化しか穀物増産はできないと主張して、強権を発動して集団化を行ったのです。
 これがどんなに陰惨なものだったか、ロシア農村にとってはツアーによる農奴制の強圧的導入以来の悲惨事とされます。ネップで成功したクラーク(富農)は、家族ごとシベリアの強制収容所に追放されました。その数は、1千万人以上ともいわれます。抵抗した農民は反革命分子のレッテルを貼られて粛清されていったのです。
 ドイッチャーは『ロシア革命50年』の中で次のように述べています。
 「(ツアー時代は)農村の零細農家は国民の4分の3以上を占めていた。(ソ連となった)現在、集団農民は4分の1しか占めていない。この傾向にたいして農民がどんなに死に物狂いになって抵抗したことか、かれらにたいしてどんな狂暴な暴力がふるまわれたか、かれらは工業化の資力に貢献するようにどんなに強制されたか、そして、集団主義的制度のもとで、どんなに憤激しながら、のろ臭く土地を耕してきたか・これはすべて、いまではだれでも知っていることである」
 強制的な集団農場化の傷痕はいつまでも残り、ソ連農業が再生されることはついにありませんでした。「農業がソ連のアキレス腱」と言い続けられ、70年代後半から80年代にかけて6年連続の穀物不足に陥り、84年には5千万トンの穀物輸入でしのぐほどでした。これに業を煮やしたゴルバチョフは84年、ペレストロイカの一環として個人副業経営の制限を撤廃し自留地面積と家畜頭数の決定権を地方の自治体やコルホーズ、ソフホーズに与えるなど、一部で市場経済化を導入しました。しかしこれでも改善は見られずソ連崩壊に至りました。
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 一方でソ連は「社会主義的工業化」を推進しました。工業化とりわけ重工業と機械製作工業の発展は社会主義の完全勝利のために必要で、同時に消費物資の豊かな生産と労働者・農民に対する物質的・文化的水準の向上をもたらす前提を作り出す、というのが共産主義の見解でした。
 しかし、実際は「重工業の発展は、社会主義諸国の防衛に必要な近代兵器を生産するための物資的基礎である」(ソ連共産党『経済学教科書』)と述べているように、ソ連のみならず東欧など衛星諸国を支配するためのものであって、労働者・農民の消費物資をつくる前提ではなかったのです。
 しかも「近代兵器を生産するための物資的基礎」も技術力の低下によって危うくなり、70年代に実施された第9次5カ年計画(71~75年)も第10次5カ年計画(76~80年)もともに未達成に終わり、第11次5カ年計画(81~85年)は目標を著しく下げたものの、ついに達成できず、これ以降、5カ年計画そのものが作成できなくなりました。
 これがきっかけでゴルバチョフはペレストロイカを導入したものの、役にも立たずソ連崩壊をとめることはできませんでした。
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 このようにソ連が実行に移した社会主義は見事に失敗しました。それはソ連式だから失敗したのではなくマルクスの理論そのものが間違っていたから失敗したといえます。

 ■資 料■

▼元ソ連共産党政治局員でソ連大統領首席顧問、歴史学者のアレクサンドル・ヤコブレフの証言
「マルクス主義の経済学公理は、実は、非現実的だった。われわれが現在知っているように、農業プログラムは、農業生産の破壊プログラムと化し、自作農との闘争、農業生産の進化がもたらした建設的遺産との闘争のプログラムとなった。レーニンが積極的に主張した土地の国有化は、ロシアの農民の中に生きていたものをことごとく焼きつくし、肥沃な土壌ばかりか、豊穣なロシア農民文化をも破壊した。市場と市場関係を克服するためのマルクス主義のプログラムは、実際には、人類文明本来の根本的基礎を破壊するプログラムだった」(『マルクス主義の崩壊』サイマル出版会)