勝共思想・勝共理論

文字サイズ

34,マルクス経済学・9  労働力は「商品」ではない

マルクス経済学・9
[キーポイント]マルクスは労働力を「商品」としました。そして、その「商品」の価値はそれを生みだす費用、つまり労働力の生産費とし、生活必需品に対する費用(生活資料の消費)を賃金としました。こうした概念ははたして妥当なものでしょうか。残念ながら、いずれも誤った概念です。労働力は人間がもっている能力、つまり創造力の現れであって「商品」ではありません。賃金は生活必需品の費用ではなく、労働者の生活費です。マルクス当時の賃金概念は今日では根本的に変化しているのです。

労働力は「商品」ではない
■その主張と批判■
 マルクスは、労働力とは市場で見つけだすことができ、その消費が価値創造であるような一商品である、といいました。そして労働力の価値は、それを生産するのに必要な労働量によって決定されるとしたのです。
 これをまとめると、次のようになります。
?@労働力は商品である
?A労働力は他の商品と同じく一定の価値(交換価値)を有する
?B労働力の価値は、労働力を生産し、発展させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値(生活資料の消費)によって決定される
?C生活必需品の価値とは、労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者にそだてあげるために必要な費用、つまり生存費と繁殖費および養育費(次の労働力代替の費用)がそれである
?Dこのような生活必需品に対する費用が賃金である
?E賃金とは労働力の価値を貨幣で表した「労働力の価格」のことである
 以上から、賃金分の労働としての「必要労働」と、新たな価値を生みだす「剰余労働(不払い労働)」という概念がつくられ、そこから搾取理論(剰余価値説)があみだされたことはすでに述べたとおりです。
 はたして、このようなマルクスの見解は正しいのでしょうか。結論からいえば、まったく間違っています。
 まず労働力を商品とすること自体が間違いなのです。なぜなら商品はみな需要を前提としています。需要を予想しない商品生産はありえません。ところが、労働力は何らの需要を予想して人間の対内に蓄えられたものでは決してありません。
 マルクスは、労働力とは頭脳、筋肉、神経、手などを動かして働く能力であるとします。ところがこの能力は労働者だけがもっているのではありません。政治家も、経営者も、科学者も、教育者も、芸術家も、宗教家もみんなもっているのです。
 それゆえに、このような能力は人間が生活するための活動力であるといわなければなりません。活動力は言い換えれば創造力であり、生命力であって、ある何かの需要のために人体に蓄えられているものではけっしてありません。つまり人間が生きていくために生まれながらにして与えられているものであって、商品ではないのです。
 そして、この創造力は労働者においては労働力として、芸術家においては創作力として、科学者においては発明力や研究力として、というようにさまざまな能力として現れるのです。
    ▼
 労働生産物としての商品は、需要があるとき、あるいは需要が予想されるときに生産されます。ですから需要がなくなれば生産は中断されてしまいます。もし労働力も商品とするなら、それも需要のために生産されるものでなければならず、需要がなくなれば、その生産を中断しなければなりません。
 つまり、労働力の需要がなければ労働力の生産(生活資料の消費)を中止しなければならないということになってしまいます。たとえば失業のときです。失業は労働力の需要がなくなった状態ですが、そうした失業者は商品(労働力)の生産を中止すべく生活資料の消費を中止しなければならないのでしょうか。
 そんなことはあり得ません。失業した労働者も一日として食糧、衣服、燃料などの消費を中止することができません。それは当然のことでしょう。その消費は労働者が生きるためのものであるからです。
 ここからも明らかなように、生活資料の消費生活は労働力の生産活動ではなく、人間としての生活活動なのです。生活資料の消費は労働力という商品を生産するための活動ではなく、すでにもっている生命力(創造力)を維持または強化するための生活活動なのです。労働力を他の商品と同じく一種の労働生産物(商品)とみたところが、マルクスの根本的な誤りであったといえます。
     ▼
 賃金が「労働力の生産費」とし「生活必需品の価格に等しい」とするのも、まったくの間違いです。
 マルクスはその生活必需品の基準について、労働者が死なないで生き、労働力の補充としての子供を養育するための最低の生活資料を想定し、次のようにいいました。
 「ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている」
 「もともと、資本家は、貨幣蓄蔵者とは違って、彼自身の労働や彼自身の非消費に比例して富をなすのではなく、彼が他人の労働力を搾取し労働者に人生のいっさいの快楽を絶つことを強要する程度にしたがって富をなすのである」(いずれも『資本論』)
 つまり、労働者はまるで奴隷のように生きられる分だけの賃金で最低基準の生活しか許されていないというわけです。
 しかしその一方で、マルクスは人間(労働者)の欲望の範囲とその充足は「だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり」、したがって「労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる」(同)といいました。
 これは文化水準が高い先進国の労働者の労働力の価値は、たとえ必要労働時間が同じか、あるいは短くても、途上国の労働者の労働力の価値よりは高く、したがって先進国の労働者の賃金の方が途上国の労働者より高いということを意味しています。
 となれば、賃金が労働時間によるのみならず、文化水準によっても決定されるということになります。
 このように見るとき、労働力を再生産するための生活必需品の価値の基準がまったく曖昧です。マルクスがもともと強調したかったことは、労働者は資本家の奴隷であり、生存を維持するため最低基準の生活しか許されていないことでしたが、実際は必ずしもそうでないので、「歴史的な精神的な要素を含んでいる」といわざるを得なくなったのです。
 しかし労働力の価値が「歴史的な精神的な要素を含んでいる」とするならば、それを計量することは不可能に近いことです。また精神的な要素を要する費用までも生産費と見ることはできないでしょう。
 結局、労働力の価格すなわち賃金は「労働力の生産費」であるというマルクスの主張は、実際には成立しえない不当な主張ということなのです。
 

□資 料
▼マルクスが主張する「実質賃金の低下の傾向」
「近代産業の発展そのものは、労働者には不利、資本家には有利な情勢を累進的に生みださざるをえず、またその結果、資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均水準を高めずに、かえってこれを低める、つまり労働の価値[労働力の価値]を大なり小なりその最低限界におしさげるものである」(マルクス『賃金・価格・利潤』)

 ■批判のポイント

●労働者の生活資料の消費は労働力の「生産活動」ではなく、人間としての「生活活動」である
 労働者は常に生活資料の消費生活を必要とする。それは労働者が生きるためのものである。労働者のみならずすべての人々が必要とするものである。したがって労働者の生活資料の消費生活を労働力の生産活動とするのは不当な見方であり、正しくは人間としての生活活動と見なければならない。

●労働力は「商品」ではない
 生活資料の消費は労働力という商品を生産するための活動ではなく、すでにもっている生命力(創造力)を維持または強化するための生活活動である。労働力を他の商品と同じく一種の労働生産物(商品)だと見たマルクスの主張はまったく誤りである。

●賃金は労働力の「生産費」ではなく、労働者の「生活費」である
 サムエルソンが『経済学』で指摘しているように20世紀を通じて労働者の実質賃金は着実に上昇してきた。労働者は肉体を維持して労働を継続するのみならず、賃金の多くの部分を文化的生活へと費やしている。今日はマルクス当時の特殊な状況(資料参照)とはまったく違っている。賃金は労働力の生産費ではなくて、労働者の生活費であると見なければならない。