勝共思想・勝共理論

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人間疎外論の克服・2
[キーポイント]マルクスは人間疎外の本質を「労働者からの労働生産物の疎外」ととらえました。そして、それをもたらした“原罪”を「資本の本源的蓄積」と断じ、そこから生じた「資本」や「資本家」が本来、労働者の手にすべき労働生産物を奪ってしまったことによって人間疎外がもたらされた、としたのです。それがマルクスの疎外論です。つまり、マルクスの疎外とは物質的な疎外にほかなりません。彼は唯物論者であったために物質的な面でのみ人間疎外問題を扱ったのです。ここが間違いのもとだったといえます。今回はマルクスが人間疎外の本質を把握することにおいて、どのように誤ったかを探ります。

人格軽視で疎外の本質見誤る
■その批判と克服
 マルクスの人間疎外の本質把握の誤りは、?@人格的側面の無視?A誤った資本観?Bプロレタリアートの偶像化の3つに現れています。
 まずマルクス疎外論の第1の誤りをみてみましょう。それは、物質的側面でのみ疎外をとらえ、人格的側面を無視してしまったことです。
 人間はたしかに衣食住の生活を営んでいますが、決してそれだけで生きているのではありません。もう一方では真善美愛の価値の生活を追求しているのが人間の実相です。それは人間は心(精神)と体(物質)からなっており、物質的欲望のみならず精神的欲望を持ち、その価値を求めているところが人間たるゆえんだからです。
 しかし、唯物論に立ったマルクスは精神よりも物質を重要視し、疎外の本質を「労働生産物からの疎外」として物質的側面だけでとらえました。もし、労働生産物を独り占めにする資本家の卑しい根性(精神)を疎外の本質ととらえれば、精神革命によって疎外の解決が可能となってしまい、唯物論および唯物弁証法が成り立たなくなり、プロレタリアートによる暴力革命が不必要になるからです。
 人間は堕落によって(代案参照)、価値生活を軽視して、利己的な物質生活をより多く追求するようになってしまいました。ですから「労働者からの労働生産物の疎外」すなわち資本家による労働者の搾取が生じたのは、資本家自身が利己的な物質生活のみを追求したからにほかなりません。
 資本家は労働者の人間としての価値や人格までも認めようとせず、彼らを一種の商品、または利潤を得るための手段とみなしました。そのような資本家に雇われていた労働者は、資本家にとってはただ搾取の対象でしかなかったのです。それゆえ労働者は、否応なく、人格を無視され、ひとつの商品として、物質的存在として扱われたのでした。
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 このように労働者は労働生産物を疎外される前に、まず人間の価値を疎外されていたのであり、人格を疎外されていたのです。労働者は価値と人格を奪われ、無視されたわけでしたが、利己主義に陥った資本家もまた、自らの価値と人格を捨てたといえます。その意味で、いずれの立場も人間の本来の価値から疎外されていたといえるでしょう。
 このように労働者の人格や価値が疎外(無視)されたから、その結果として労働生産物から疎外されたのでした。マルクスはパリ時代に、資本家たちは労働者たちを商品のように扱っているといって、労働者の人格が無視され、蹂躙されていることを憤慨したにもかかわらず、彼は人間の精神的価値や人格の疎外を人間疎外の本質とはみずに、結果的な現象にすぎない労働生産物(物質的価値)の疎外を、人間性疎外の本質と見たのです。これが誤りのもとだったのです。
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 第2には、資本観の誤りです。マルクスは「資本」を労働の生き血を吸いながら絶えず自己を増殖していく価値ととらえ、疎外または搾取の元凶だと結論づけました。ちなみに、マルクスによれば資本とは、資本主義的生産関係の下におかれた私的所有としての生産手段のことです。
 ここでマルクスが犯した誤りの第1は、本来、単なる物(生産手段、貨幣)である資本があたかも貪欲な生き物であるかのように、労働者を搾取しながら価値を増殖するとしたことです。資本それ自体の本性が搾取であるとしてしまったのです。
 これは、たとえていえば、ナイフがその用途いかんにもかかわらず、また持ち主のいかんにかかわらず、絶えず血を求めてやまない凶器であると主張するのと同じです。価値を増殖する欲求は資本そのものにあるのではなく、資本を所有する人間(資本家)の心にあるのに、マルクスはあたかも資本自身の中にそのような欲求があるかのように表現したのです。
 また、誤りの第2は、資本主義社会においてのみ資本が成立するとしたことです。これは資本主義社会を弾劾せんがための独断にすぎません。実際、社会主義社会では、資本がなくなったのではなくて、かえって資本が最高度に集中して国家資本となりました。そして資本家による労働者の搾取は、共産党による労働者の搾取の構造にとって変わっただけでした。
 誤りの第3は、資本を生みだした「本源的蓄積」の主張です。マルクスはこれこそまさにキリスト教の原罪に相当するといいましたが、果たしてそうでしょうか。原罪に相当するなら、これが最初の出発点になっていなくてはなりません。しかし本源的蓄積に際して、当時の富農層はなぜ民衆から無慈悲に生産手段を収奪したのか、その説明ができません。
 マルクスのいう「囲い込み」(エンクロージャー)は人間の価値や人格を放棄して、利己的欲望のみを追求する人間(富農)によって敢行された事件なのです。すなわち本源的蓄積という物質的蓄積それ自体が、精神的な利己的欲望の蓄積に基因していたのです。このことをマルクスは理解しませんでした。
 それはマルクスが思想の形成の出発点において、すでに根本的な誤りを犯し、それによって方向錯誤に陥っていたからです。人間の疎外は内的な心の問題から来ているのに、マルクスは外的・物質的な資本の形成が人間疎外の根本的原因とし、労働生産物の疎外を人間疎外の本質ととらえてしまったのです。
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 第3には、プロレタリアートを偶像化したことです。
 マルクスは人間疎外を物質的な問題として扱い、人格的・倫理的な問題として扱おうとはしなかったにもかかわらず、資本家階級に対しては、あたかも悪魔のように絶対的悪であると考え、「(資本家による)直接的生産者の収奪は、なにものをも容赦しない野蛮さで、最も恥知らずで汚らしくて卑しくて憎らしい欲情の衝動によって、行われる」(『資本論』)などと糾弾しました。
 このようにブルジョア階級については人間性を告発しながら、マルクスはプロレタリア階級については「ブルジョア階級を暴力的に崩壊させ、それによってプロレタリア階級がその支配を打ちたてるときがきた」(『共産党宣言』)と一方的にプロレタリア階級を神聖化または理想化したのでした。
 後にロシアの哲学者ベルジャーエフは「プロレタリアートは搾取という原罪に汚れていない唯一の階級である」「プロレタリアートとは神秘的観念であるが、それは同時に最高価値であり、絶対善であり、至高の正義でもある」(『共産主義という名の宗教』)と指摘したとおりです。
 ブルジョア階級を邪悪なものとする一方で、プロレタリア階級とその代表である共産主義者については何の検討もせず、無条件に善なるものとして理想化(実は偶像化)してしまったことは、マルクスの致命的な誤りだったといえます。人間性の疎外現象は、ある一階級のみに限ったものではなくて、人類に共通する現象であったからです。
 実際、マルクスが全く予期しなかったことですが、ユーゴの元副大統領ミコバン・ジラスが指摘したように、共産主義者は理想社会を目指して革命のための闘争を行っている間は、献身、犠牲、同志愛などの一定の道徳規律を維持していましたが、ひとたび権力を握れば、それらは消滅し、特に指導者は偏狭で偽善的な支配者に転化し、冷酷で残忍な非人間的な圧政者に変貌していったのです。
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 以上、マルクスが人間疎外の本質の把握を誤ったために、疎外から解放できず、かえって数十億の人々に悲惨な運命を背負わせることになってしまったのでした。

■批判のポイント
●統一思想からみた「生心と肉心」
 統一思想では、人間の心は生心(霊人体の心)と肉心(肉身の心)の二つの心が統一されたものとみる。それは人間が霊人体と肉身の二重体であるからである。霊人体とは霊的五官によってのみ感知することができ、肉身の死後、霊界において永遠に生存する霊的存在をいう。これに対して肉身とは、肉的五官によって感知することのできる、物質的な身体のことをいう。生心の機能は価値(精神的価値=真善美愛)を追求し、肉心の機能は肉身生活(物質的価値=衣食住および性)を営むようになっている。この両者の関係は、おのおの主体と対象の立場で授受作用するのが本然の姿である。すなわち生心が肉心を主管しながら、価値の生活を先次的(先立てること)、衣食住の生活を後次的に営むのが人間の本来の姿とみるわけである。
 しかし、人間は堕落によってこの本然の姿を失い、肉心が生心を容易に主管するようなり、そのために一般的に人間は(資本家も労働者も)価値生活を軽視して、利己的な物質生活をより多く追求するようになったといえる。

●肉心中心による人間疎外
 「労働者からの労働生産物の疎外」すなわち資本家による労働者の搾取が生じたのは、資本家自身の肉心が生心を主管し、自己利己的になって、利己的な物質生活のみを追求したからにほかならない。肉心中心になった資本家は、真善美愛の価値生活を無視してこれを顧みず、したがって人間としての価値を喪失(放棄)した。そればかりでなく労働者の人間としての価値や人格までも否定した。その結果、労働者は、否応なく、その本性(人格)を無視され、ひとつの商品として、物質的存在として扱われた。労働者は労働生産物を疎外される前に人間の価値、人格を疎外されていたのである。