勝共思想・勝共理論

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14,唯物弁証法・7  自然界にない「否定の否定の法則」

唯物弁証法・7
自然界にない「否定の否定の法則」
[キーポイント]前回は「量から質への転化の法則」の間違いを見てきました。今回は「否定の否定の法則」です。最初に紹介した「矛盾の法則」(対立物の統一と闘争の法則)を加えて、これらが唯物弁証法の三つの柱です。すべての間違いは事物を対立物ととらえるところから始まっているわけですが、「否定の否定の法則」は対立物が統一と闘争、つまり正反合によって発展するとした考えを表現を換えて説明したものといえます。これも革命を正当化するために組み立てられた架空の理論です。「否定」の概念そのものが間違いであり、それを前提とした法則も成立しません。



■ その主張と批判 ■
「否定の否定の法則」とはいったいどのようなものでしょうか。エンゲルスはこんな例を引き合いに出しています。
「大麦の粒をとってみよう。幾兆のこういう大麦粒は、引き裂かれ、煮たきされ、醸され、それから食われる。だが、もしこのような大麦の一粒が、それにとって正常な条件に出会えば、つまり好適な地面に落ちれば、熱と湿気との影響を受けて特有の変化がそれに起こる、つまり発芽する。麦粒はそれとしては消滅し、否定され、それに代わって、その麦粒から生じた植物、麦粒の否定が現れる」(『反デューリング論』)
 ここまでが否定です。さらにその否定、つまり否定の否定ついてエンゲルスは続けてこういいます。
 「だが、この植物の正常な生涯とはどういうものか? それは生長し、花をひらき、受精し、最後にふたたび大麦粒を生じる。そして、その大麦粒が熟するというと、たちまち茎は死滅し、こんどはそれが否定される。こういう否定の否定の結果として、ふたたびはじめの大麦粒が得られるが、しかし、一粒ではなくて、10倍、20倍、30倍の数で得られる」(同)
 大麦の種子が発芽して植物になることを、種子の否定だといい、その植物から数十倍の新しい大麦粒が生ずることを否定の否定というのです。
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 同じ「麦の発芽」を題材にして新約聖書のヨハネ伝には「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただの一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(「ヨハネによる福音書」12章24節)とあります。ここでは自分の身を犠牲にして他を生かすことを比喩的に語っているわけですが、エンゲルスの場合の否定は対立物(正と反)の闘争によって起こる必然的な現象であるというのです。つまり「闘争」によって他を「打倒」(否定)して生き残ることを「否定の否定の法則」というのですから、ヨハネ伝と同じ題材でも意味が180度違っています。
 大麦の例に引きつづいてエンゲルスは「大部分の昆虫、たとえば蝶でも、この過程は大麦粒の場合と同じようにおこなわれる。蝶は、卵から、卵の否定によって生まれ、そのいろいろな変態を経過して性的成熟に達し、交尾し、そして交尾過程が完了し、雌が多くの卵を生むとすぐ死ぬことによって、ふたたび否定される」と述べ、「否定の否定の法則」が自然界を支配する法則であるとします。
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 しかし、これは本当に自然界の法則でしょうか。
 事実はまったく違います。種子は否定されて発芽していくのでありません。種子の中で胚芽は植物の芽になるために存在し、胚乳は胚芽が生長するための養分として存在しており、また種皮はある一定の期間、胚芽と胚乳を保護するためにあるのです。
 つまり、胚芽も胚乳も種皮も、みな発芽して植物になるという共通目的の下に存在しているのです。ですから大麦の種子の場合は、大麦になるという目的の下に種皮に保護されながら、胚芽と胚乳が互いに肯定しあいながら授受作用(闘争ではない)を行って芽になるのです。芽は種皮を破って出るように見えますが、これも闘争ではありません。一定期間、胚芽や胚乳を保護するという役割を終えた種皮を、あたかも衣を脱ぐように脱ぎ捨てて芽が出てくるのであり、一方、種皮は芽が発芽しやすいように脆弱になるのです。
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 では、植物が否定されて新しい種を生じるというのはどうでしょうか。
 これも間違いです。大麦のような一年生の植物の場合は、花を咲かせて、種を生じ、ひとたび生長し尽くした後には、たしかに植物は枯れます。しかしそれは闘争によって否定されて枯れるのではなく、その使命(目的)を終えて自然に枯れていくのです。
 またリンゴのような多年生の樹木の場合は、毎年、新しい果実を実らせても枯れません。多年生はリンゴのほかにいくらでも例があります。種子(あるいは果実)が植物を否定して生じるものでないことは誰の目にも明らかなところでしょう。エンゲルスの主張は一年生のときには一見、そのように見えますが、多年生のときには通じません。そんなものが法則になり得ないことは論を待ちません。
 蝶の例もまったく同じです。前々回の「対立物の統一と闘争の法則」批判で述べましたように、卵は否定(闘争)によってひよ子になるのではありません。また蝶は卵を生むことによって否定されて死ぬのでもありません。蝶としての使命(目的)を終えたから死ぬのです。
 動物が産卵によって否定されるのではないことは、植物に多年生の植物があるように、動物にも一度の産卵や子を産んで死ぬのではない動物(鶏や犬など)がたくさんいることからも明らかでしょう。
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 実はエンゲルスも多年生の植物や一度だけの産卵で死なない動物の存在にも気付いていました。そこで前述の蝶の例のあとでこう述べています。
「他の植物や動物の場合には、この過程がかように簡単にかたづかないので、それらが死んでしまうまでに一度だけではなく、幾度も種子や卵や仔を産みだすということは、ここではまだわれわれにとってはどうでもよいことである。ここではただ、否定の否定というものが生物界のこの両界において現実に行われていることを指摘しさえすればよいのである」(同)
 どうでもよい、はないでしょう。ようするにエンゲルスは革命に都合のよいところだけをつまみ食いし、否定の否定を法則に仕立て上げようとしているだけにすぎないのです。
 否定の否定の法則が真理であるとして、原始共産社会│(否定)→階級社会│(否定の否定)→共産社会へと移行するといった具合にして共産主義革命を正当化するわけです。
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 そもそも唯物弁証法における「否定」の概念事態が間違っています。
 彼らは、卵が胚子と黄身・白身が対立しつつ存在していると説明するように否定も「単なる否定でもなければ、でたらめな否定でもなく、また懐疑的な否定、動揺、疑いでもない。そうではなくて、それは連関のモメントとしての発展のモメントとしての否定であり、肯定的なものを保持した否定」(レーニン『哲学ノート』)などというのです。
 つまり「否定」の概念に破壊、絶滅という否定的意味と、統一、保存のような肯定的意味のような正反対の二つの意味を含ませているので、一見、いかなる現象も説明できるかのように錯覚させるのです。これは対立物の「統一と闘争」という概念でも同じことがいえます。
 概念を曖昧模糊なものにするところがミソなのです。自分たちが不利となれば、否定や破壊を伴わない平和的な意味に解釈して本音を隠し(まさに現在の日本共産党)、有利となれば闘争の意味に解釈して大衆を扇動して革命に動員する(おそらく将来の共産党がそうでしょう)、こういう革命の隠れ蓑が「否定の否定の法則」なる似非法則なのです。

■資料■
▼「否定の否定の法則」を社会に適用しようとしたマルクスの言
「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である」(カール・マルクス『資本論』)

■批判のまとめ
・否定の概念が間違っている
 種子が発芽することを否定ととらえるのは間違いである。胚芽も胚乳も種皮も、みな発芽して植物になるという共通目的のもとに存在しており、発芽して植物になることを否定というのはおかしい。宇宙の目的性を認めないからすべてで目的性を排除し、事物を対立物として否定という概念を登場させた。これらのとらえ方はすべて間違っている。
・多年生の植物やほとんどの動物で否定の否定の法則は当てはまらない
 種が否定され植物になり、その植物が否定されて何倍もの種子になるとするが、リンゴなど多年生は種子をつくっても枯れないから否定にならない。動物も子どもを産んでも死なずに何度も子どもを産む動物が少なくない。否定の否定の法則は自然界の法則とはいえない。

■代 案
 肯定的発展の法則
 すべての事物は自然においても社会において、その中にある主体的要素と対象的要素が円滑な授受作用を行うことにより、あるいは他の事物との間で主体と対象の関係を結びながら円満な授受作用を行うことによって肯定的に発展ししている、と統一思想ではみるので、これを「肯定的発展の法則」と呼ぶ。
 発展運動とは生命体の運動であり、そこには目的性と時間性と段階性がある。つまり発展運動とはある目的を実現する方向に向かって、一定の時間を経過しながら段階的に前進していく運動のことである。すべての存在は主体と対象の授受作用による円環運動を行うことによってその存在の永続性を維持している。無生物の場合は、たとえば地球が太陽の周りを回るような円環運動をしており、生物の場合は種族保存と数の増殖と質の多様化のために継代現象として時間的な円環運動、すなわち螺旋形運動を行っている。