勝共思想・勝共理論

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03,疎外論・中  人間愛と宗教を全面否定へ

疎外論・中
人間愛と宗教を全面否定へ
 マルクス思想は、この思想を生み出したカール・マルクス本人の成長過程での家庭における宗教的葛藤を内的条件(主体的動機)とし、さらに19世紀初頭の初期資本主義の矛盾と自由主義と封建思想とのせめぎ合いを外的条件(対象的動機)として誕生した・・このことを前回さぐりました。つまり、マルクスの怨みに満ちた心理と性格、さらに社会的環境が基盤となってマルクス思想が形成されたわけですが、具体的にはどう作り出されてきたのでしょうか。今回はマルクス疎外論が形成される過程をたどってみましょう。



 マルクスの思想形成は、年表にあるように【1】ベルリン時代【2】ライン新聞時代【3】ドイツ新婚時代【4】パリ時代【5】ブリュッセル時代【6】ロンドン時代の概ね6つに分けることができます。  彼の著作で最も有名なのは、『資本論』ですが、それは最後のロンドン時代に著したものです。最後の時代といっても1849年(31歳)から亡くなる83年(64歳)までの33年間、つまり人生のほぼ半分を費やして、ロンドンの大英博物館読書室に入り浸り、主に『資本論』の執筆にあたったのですから、これがマルクス主義の核心と言えるでしょう。  しかし、『資本論』はすでに彼が考えていた共産主義思想の「正当性」を裏付けするために書かれたものにすぎません。多くの人々はマルクスが経済学を研究し尽くした結果として共産主義に至ったと思っているかも知れませんが、事実はまったく逆さまです。年表の著作で明らかなように、経済学研究の以前、つまり、ろくに経済学を学んでもいない段階において、すでに「プロレタリアートによる私有財産の否定」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)や「プロレタリアートこそが真の歴史の創造者」(『聖家族』)といった結論があるのです。ここに注目する必要があります。この結論に説得力をもたせるために著したのが『資本論』なのです。  そうです、初めに結論ありき、なのです。その結論こそが「暴力革命」による既存体制の転覆であり、宗教の抹殺、良心の抹殺、神の抹殺なのです。前回述べました彼の動機が最初からこのような結論を導き出していたのです。



 さて、本論の疎外論がどう形成されたのかを具体的にたどってみましょう。  まずベルリン時代。彼がベルリン大学(フンボルト大学)で学んでいた1836~42年、つまり18歳から24歳までの6年間をさします。ここでマルクスは彼の思想的原点とも言えるヘーゲル哲学と出会います。ヘーゲルがいなければマルクス主義は登場しなかったことでしょう。  ヘーゲル(1770~1831)はカント、フィヒテから継承されたドイツ観念論哲学に連なる偉大な哲学者です。市民社会の矛盾と病弊の中にあって、真の自由はいかに獲得されるか、この課題に直面したヘーゲルはその克服に国家という存在に着目、『歴史哲学』や『法の哲学』で、人間は理性的存在であり、そして理性の本質は自由で、実現されるべきその自由は国家を通じてなされると主張したのです。  つまり、人間の生活活動が欲望の体系として市民社会の場に展開すれば、個人主義的な欲望の衝突に終始し、分裂するしかありません。しかし、これを調整・統合する制度としての国家が普遍思想(理念・ロゴス)の担い手たる君主に体現・代表された法を通じて具現化されれば、市民社会の混乱は収拾されます。このようにヘーゲルは『法の哲学』で展開し、プロイセンの官僚政治に期待をかけます。 「疎外からの解放」つまり自由を希求していたマルクスは、ヘーゲルの説く「真の自由の獲得」に大きく引き寄せられることになります。これがマルクスの人間解放の思想の原点となったといえるでしょう。  しかし、プロイセンという国家こそマルクス家の葛藤、すなわち疎外をもたらした張本人ではなかったのか、とマルクスは疑問を抱くようになります。そうしたマルクスの前に登場したのがヘーゲル左派の人々です。ヘーゲルは「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(『法の哲学』)との命題を掲げましたが、後者つまりプロイセンという現実的なものが理性的であるとするならプロイセン国家を擁護せざるを得ません。これがヘーゲル右派の主張です。これに対して前者つまり理性的であるものこそ現実的であらねばならないとすれば、現実のプロイセン国家を変革せねばならないはずです。これが左派の主張です。  やがてマルクスはヘーゲル左派に加わるようになります。しかし、卒業後に就職したライン新聞で彼は年表にあるような二つの厳しい現実と出会い、ヘーゲル哲学の無力さを痛感し挫折してしまいます。  折しもマルクスは幼なじみのイェニーと結婚。この新婚時代(43年)にヘーゲル批判を試み、初めて本格的論文である『ヘーゲル国法論批判』と『ユダヤ人問題によせて』を著しました。いずれもヘーゲル左派のフォイエルバッハが打ち出した人間主義の立場から、疎外からの解放(本来の人間への復帰)を説いたものです。フォイエルバッハは神を否定しましたが、人間の愛や良心を信じ疎外 からの解放への期待を「人間愛」にかけ、マルクスもこれを支持しました。



 ところが、パリに移るやいなや、マルクスは人間主義を放棄し、逆に人間主義を痛烈に批判するようになります。当時、プロイセンはマルクスへの弾圧を強め、さらに父の死後、熱烈なユダヤ教徒に戻ったマルクスの母ヘンリエッテが「異教徒」のイェニーとの結婚に猛反対、故郷トリールのユダヤ教徒たちに煽られてマルクスへの父の遺産相続を拒絶したのです。改めて国家と宗教の「仕打ち」に直面したマルクスは「人間愛」に決別したといわれます。こうして徹底したヘーゲル批判を始めます。  それが『ヘーゲル法哲学批判序説』です。ここでは、従来の「人間そのもの」に復帰して人間疎外が解放されるとの考えを捨て去り、ついに「宗教は阿片である」と規定するに至ります。宗教の“正体”を暴いた以上、人間疎外、すなわち本来の人間ではなくなった理由は法律的・政治的に扱わなければなりません。そこでマルクスは当時のパリの社会主義思想を採り入れ「プロレタリアートという特殊な一階級による私有財産の否定によって人間解放がなされる」との結論を導き出したのです。  こうしてマルクスは哲学的思考から経済学的思考を迫られます。そんな時にフリードリッヒ・エンゲルスの『経済学批判大綱』と出会い、それを礎石に『経済学・哲学草稿』をまとめることになるのです。ここにマルクス思想の原点ともいうべき人間疎外論が世に姿を現すことになります。  これをスタート台に後の著作が登場し、エンゲルスの協力のもとに弁証法的唯物論、唯物史観、労働価値説・剰余価値論といった共産主義思想が確立されるようになるのです。  次回は疎外論の中身に入りましょう。

■資料

マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』 「宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である」

■登場人物

ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804~1872)  ヘーゲル左派の急進的宗教批判家。『キリスト教の本質』の中で、神を人間の本質の外化として把握し、人間主義的な唯物論を説いた。人間にとって最も重要なのは恋愛、友情、同情などの人間の愛と捉え、これら人間の本質を人間から切り離して神に置き換えることから人間の愛が消滅してしまい、逆に人間は利己的で無力な存在(人間の疎外)になってしまったとする。

フリードリヒ・エンゲルス(1820~1895) ドイツ・バルメンにブルジョアの子として誕生。専制的な父に反発してヘーゲル左派に傾倒。英マンチェスターで工場経営。マルクスと出会った後、彼を支援し『資本論』を編纂。自らは自然科学研究に専念し『自然の弁証法』『猿が人間になるについての労働の役割』などを執筆。弁証法的唯物論の形成に中心的役割を担う。その意味で共産主義はマルクス・エンゲルス主義と呼ばれる。