勝共思想・勝共理論

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02,疎外論・上 理論形成に重要な影落とす生い立ち


疎外論・上
理論形成に重要な影落とす生い立ち

 いったいなぜ、共産主義という思想が生まれ、それが20世紀をして「革命の世紀」たらしめ、さらには今日なお広く社会に浸透しているのでしょうか。それはマルクス思想には「疎外論」という大義名分があったからです。疎外―。この言葉は日常生活において、あまり使わないかも知れません。しかし「疎外されている」といえば、「のけ者にされている」とか「よそよそしくされている」、あるいは「本来こうあるべきなのに、そうなっていない状態」などを言うように、疎外論とは不条理な人間を解放せんがための理論といえます。マルクス思想はいったいどのようにして人間疎外を解放するというのでしょうか。

 疎外を論じる、このことは人が現状に満足していないことを意味しています。今の状態が本来の自分または人間の姿ではないと感じるところから疎外という概念が生まれるわけです。そして、どうしたいか、どうありたいかというところから一つの思想が登場してくることになります。
 ですから、疎外やそれからの解放を論じるということは、その人の家族環境を背景に培ってきた心理や性格、個性、あるいは成長の過程で得た人生観や世界観などが大きな影響を与えていることは論を待ちません。いわば動機です。これが思想成立の主体的な要因、つまり精神的条件といえます。
 同時に人には生まれた時代や国、社会が現に存在し、そこから大きな影響を受けることも否めません。政治的、経済的、社会的、宗教的なあらゆる状況や事態、すなわち社会的環境的に対して疎外を感じたり、あるいは疎外からの解放の念を抱くのは当然で、それら影響を受けて思想が形成されることになります。これが思想成立の対照的要因である社会的環境的条件といえます。
 この二つの要因が相互に作用するときに、ここに一定の思想が形成されていくことになります。マルクス思想とて例外ではありません。マルクス主義者の多くは、マルクスが生きた19世紀の時代環境を重視し、マルクス思想は「時代の落とし子」といったことをよく言います。しかし、これは社会的環境的条件だけにしか注目しない偏った見方です。マルクス思想を正しく理解するには、社会的環境的条件だけでなく精神的条件にも目を向け、主体・対称両面から理解しておく必要があります。



 カール・マルクスは1818年5月5日、ドイツのライン地方のトリールという町で生まれました。トリールはフランス国境に近いライン支流のモーゼル川の川沿いにある、現在でも人口5万人程度の石畳の美しい町です。
 父はヘッシェル(改宗後はハインリッヒ、1777~1838年)。母はヘンリエッテ(1788~1863年)。両親ともユダヤ教の由緒あるラビ(指導者)の出身。つまり、マルクスはユダヤ人社会の名門に生まれたのです。父は1789年のフランス革命とその後のナポレオンのトリール支配から啓蒙思想の影響を受け弁護士になりますが、ワーテルローの戦い(1814年)の後、マルクス家は大きな試練に直面します。
 トリールを奪還したドイツ(プロイセン)は伝統的なキリスト教信仰を押しつけ、ユダヤ教徒を公職から追放する条例を作ったのです。父ヘッシェルは信仰を守るか、それとも職を守るかの選択を迫られ、その結果、職を選び、1816年にユダヤ教を捨てキリスト教に改宗、洗礼名ハインリッヒを名乗るようになったのです。
 これはマルクス家に重大な葛藤をもたらします。厳格なユダヤ教徒ヘンリエッテは改宗に猛反対します。そんな中でカールが次男として生まれますが、翌19年には可愛い盛りの4歳の長男が死亡。改宗のゆえの悲劇としてヘンリエッテはますます改宗に異を唱え、そんな父母の葛藤の中でカールは育つのです。カールら7人の子供らがキリスト教に改宗したのは1824年、その翌年にはプロイセンの圧力を受けた夫の説得でようやく母も改宗しました(ちなみに彼女は夫の死後、直ちにユダヤ教に戻っている)。
 さて、こうした葛藤はマルクス家の内部にとどまりませんでした。キリスト教に改宗しても、プロイセン社会からは相変わらずユダヤ人として根強い差別を受け、一方、ユダヤ人社会からは背教徒として蔑視され続けたのです。このようにカール・マルクスの取り巻く家庭的社会的環境はきわめて暗いものでした。
 マルクスの口から家族の絆や兄弟愛といった言葉が語られることは後にもまったくありません。父母の死に際しても哀悼の言葉は聞かれません。マルクスの心の底には父母への反発に満ち、家族にまつわる愛情に冷え切っていることが知れます。 
 こうして幼年期にマルクスは孤独感、疎外感、劣等感、屈辱感、敗北感にさいなまれいったのです。その反発から反抗心、復讐心をつのられ、青年期に至って反抗的性格、闘争的性格を形成していったと見られます。加えて、ユダヤ教から改宗したとえはいえ、マルクスには潜在的にユダヤ人固有の召命意識(選民意識)があり、それが反抗的闘争的性格と相まって、体制打倒の革命家としてのマルクスの性格を形作っていったと見てまず間違いないでしょう。
 その反抗心は差別を受けたキリスト教とユダヤ教に向けられ、宗教に対する押さえ難い憎悪心と反抗心を沸き立たせ、ついには「宗教の抹殺」「神殺し」を希求するようになっていったのです。これがマルクスがその思想を形成していく動機となる主体的、精神的条件といえるでしょう。



 では、当時の社会的環境はどうだったでしょうか。
 マルクスが成長した19世紀前半期は、18世紀のフランス革命を契機として台頭した自由主義思想が西ヨーロッパ社会に吹き荒れていた時です。旧体制である封建主義・絶対主義が残存していているところでは、いずこでも保守勢力と
自由主義勢力との衝突が繰り広げられいました。
 一方、イギリスやフランスなどの先進国では産業革命によって資本主義が発展の途上にありましたが、資本家の労働者に対する搾取と酷使がひどく、失業、飢餓、疾病、社会的犯罪などの惨状が広がっていました。このような時にキリスト教をはじめ宗教は無力で、逆に体制に利用され惨状を正当化すらしていたのです。
 為政者や財界人が不正、腐敗に流れ、権力の人民に対する抑圧、大衆の貧困、苦痛、不安などが極に達するようになっていました。 こうした社会的環境のもとで、マルクスの怨みに満ちた心理と性格が基盤となってマルクス思想が形成されていったのです。

■資料■
マルクスが1837年に書いた詩「絶望者の祈り」の一節
「神が俺に、運命と呪いと軛(くびき)を残して
何から何まで取り上げて
神の世界はみんな、みんな、なくなっても、
まだ一つだけ残っている、それは復讐だ!
俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい」
(改造社版『マルクス・エンゲルス全集』第二六巻)

■登場人物■
ハインリッヒ・マルクス(1777~1838年)
 フランス革命から啓蒙思想に影響を受け、1794年のフランス軍のトリール進入を歓迎。弁護士になるも、1815年のナポレオン敗北・プロイセン支配によって職を守るためキリスト教に改宗、ライン地域の法務職(法務大臣)に就任。カールには法務職を継ぐことを希望しボン大学で法律学を学ばせるが、カールは逆らいベルリン大学哲学科に移る。カールの放蕩の心労がたたって1838年に死亡。

■用語解説■
●ユダヤ人迫害
ヨーロッパ社会におけるユダヤ人差別の始まりは439年にローマ帝国が発したキリスト教への改宗命令にさかのぼる。これを守らなかったユダヤ人は市民権を剥奪され、最下層民とされた。ユダヤ人はキリスト教徒には禁じられていた金貸しなどの商品経済の場に見に置く。中世から17世紀まで魔女狩りの対象となった。中世以降、ヨーロッパ諸都市ではユダヤ人は「ゲットー」と呼ばれる居住区に強制隔離されたが、18世紀にヒューマニズムが西欧を包むとゲットーから解放され、市民社会に住むようになった。東欧では20世紀に至っても『屋根の上のヴァイオリン弾き』に描かれているように、ゲットーに住まわされ続けた。

●フランス革命
 1789~99年。フランスで起きた、近代社会を切り開いたとされる市民革命。旧体制(アンシャン=レジーム)が聖職者(第一身分や貴族(第二身分)の一部特権階級に要職が独占されているとして、市民と農民(第三身分)の政治参加を一部貴族や市民が要求。これに対して国王が軍隊の力で議会を威嚇したことで革命が勃発、王政が打倒された。その後、ナポレオン登場まで10年にわたってジャコバン派らが粛清・恐怖政治を敷いた。