勝共思想・勝共理論

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32,マルクス経済学・7  機械も価値を生み出す

マルクス経済学・7
[キーポイント]マルクスは商品の価値が新たに付与されるのは生産過程であり、それを生み出しているのはただ一つ、労働力だけであるとしました。そこで労働力は価値を作り出す「可変資本」、原料や機械などは価値を作り出さない「不変資本」と名付けました。しかし、ここで問題なのは機械です。機械を導入すると生産性が向上し、より一層の利益があがっているのは明らかです。企業は利益を生み出すから機械を導入するのに、なぜ機械は価値を生み出さないと決めつけるのでしょうか。ここが剰余価値説の間違いです。

機械も価値を生み出す
■その批判
 マルクスは機械が「不変資本」である証拠として企業会計で用いられる減価償却法を利用しました。
 「機械は、自分が消耗によって平均的に失っていく価値よりも多くの価値はけっしてつけ加えない」(『資本論要綱』)
 たとえば100万円の織物機械があったとしましょう。この織物機械は10年間使用される場合、1年間で10万円分が摩滅していることになります。企業にとってはその分、資産の減価を招いていることになるので費用として計上し、それによって固定資産に投下した資産を回収します。これを減価償却といいます。
 この計算方法を使ってマルクスは、ある一定期間に減価償却法によって計算される機械の摩滅費用だけが、その期間に生産される商品に移行しているにすぎないとしたのです。
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 はたしてそうでしょうか。機械はたしかに稼働する間に少しずつ摩滅しているでしょう。そして摩滅する分だけ機械の価値が減少しているのも事実でしょう。だからといってそのことが価値を生み出さない証拠にはなりません。
 たしかに機械の価値(価格)は減価償却費に等しいでしょう(もともとそう計算して減価償却費を出すのですから)。しかし、この減価償却費の分だけが商品に移行していると決めつけることはできません。なぜなら、機械の摩滅とは機械の形態あるいは構造の摩滅や重量の減少であって、機械がもつ性能や仕事量については換算されていないからです。
 言い換えると機械の摩滅に比例して減少する価値は機械の交換価値のことであって、使用価値(性能)ではないのです。もちろん、機械の形態や構造の摩滅によって、機械の機能や作用性、すなわち使用価値も低下することはあるでしょうが、その機能(使用価値)の低下が摩滅に比例して低下していくとは限りません。むしろ低下していかないのが現実です。
 このことは性能のよい機械が一定期間、その性能に何の障害もなく稼働することからも明らかです。性能のよい機械であればあるほど、長期間、品質のよい商品を多量に生産し大きな価値を生み出します。
 こうして見ますと、商品に価値を与えるのは機械の性能であって機械の摩滅ではないことがわかります。たとえば1日に交換価値が1万円分摩滅するとしても、その機械の性能(使用価値)によって10万円分あるいは20万円分といった新たな価値を生産物に付加しているのです。
 ことに新しい機械は新しいほど強固で性能が優れているので、摩滅はより少なく、より多くの価値を生産するものです。こうした利点があるからこそ、資本家は競って新しい機械を導入するのです。
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 このように商品価値が形成されるのは機械の摩滅によるのではなく、機械の性能によってであると見なければなりません。にもかかわらずマルクスはこの事実を覆い隠しました。
 マルクスは労働力については、労働力の価値(労働者を労働者として維持するための生存費=いわば入力)と労働(必要労働と剰余労働=いわば出力)を区別しておきながら、機械については入力と出力を独善的に等しいとして価値を生み出さないと決めつけたのです。
 機械が利潤を生産しないことを論証しようとするなら、マルクスは機械の機能・性能がなぜ新しい価値を付与できないかを解明しなければならないはずです。しかし彼はこれをまったく論証しませんでした。減価償却法の適用によってマルクスは論証の核心をずらしてしまったのです。
 しかし、減価償却法の適用には、大変な矛盾があることがわかります。機械の摩滅する価値部分だけがそのまま商品の中に移行されるとするのなら、機械が多く摩滅すればするほどその分、商品価値は高くなることになり、それとは逆に機械の摩滅が少なければ少ない価値しか商品に移行しないことになります。とすると、機械の摩滅の多い、つまり長持ちしない、あるいは壊れやすい機械による生産の方が商品価値が高くなるという自家撞着におちいってしまいます。
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 実際はまったく逆です。新しい摩滅の少ない機械を使用した企業の良質な商品の方が、古い摩滅の多い機械を使った企業の低質の商品よりも価格が高いのが市場では通例です。このことからも、機械を減価償却法によって不変資本とする論証は、完全に偽善であり欺まんであることが明らかでしょう。
 今日の製造工場といえば、たとえば自動車工場のようにロボットなどによるオートメ化が進み、労働者の労働を軽減して大量の商品が生産され、膨大な利潤をあげています。この事実をみれば、労働力によってのみ価値が生み出されていると強弁することの空しさが知れます。実際は機械も労働力と同様に価値を生み出しているのです。
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 実はマルクス自身も機械が労働力に代わるものであることを知っていました。だから彼は「生産様式の変革は、マニュファクチャでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段[機械]を出発点とする」とか「作業道具といっしょに、それを取り扱う手練も労働者から機械に移る」と述べています。マルクスは機械が生産過程に導入されるときから労働者は単なる機械の「付き添い」「補助者」「見張り工」にすぎなくなるとも言っています(いずれも『資本論』)。またエンゲルスも「機械生産においては、労働者は現実に駆逐され、機械は直接に労働者と競合する」(『資本論要綱』)としています。
 そればかりかマルクスは「機械のもたらす直接の結果は、剰余価値を増加させると同時にそれを表す生産量も増加させる」(『資本論』)とまで述べ、機械の利潤生産を認めざるを得ないと告白しているのです。機械が剰余価値(利潤)を生み出すなら、もはや機械は不変資本ではなく可変資本ということになるはずです。
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 それにもかかわらずマルクスはなぜ、労働力だけが価値を生み出すことができる可変資本と主張し続けたのでしょうか。それは利潤は労働者だけが生産するということ、したがって資本家の利潤の取得はとりもなおさず労働者に対する搾取であるという理論を組み立て、革命を合理化、正当化するためであったのです。
 ですから剰余価値説は科学的ではありません。あくまでも革命のための党派的な理論なのです。

■資 料
▼減価償却法で機械を「不変資本」と決めたマルクスとエンゲルスの交換手紙(エンゲルスは工場経営者でもあった)
 マルクス「ついでだが、君たちの工場では、どのくらいの期間で機械設備を更新するか、教えてもらえないだろうか」(「マルクスからエンゲルスへの手紙」1858年3月2日)
 エンゲルス「機械の問題については、確実に言うのは困難だが…最も確実な標識は、各工場主が年々自分の機械について損耗分や修理費を償却して行き、こうして彼の機械を全額償却するまでのパーセントテージだ。このパーセンテージは通例は7%で、そうすれば機械は13年で使用による年々の減価を償却され、したがって損出なしに完全に更新される」(「エンゲルスからマルクスへの手紙」1858年3月4日、いずれも『資本論書簡』より)

■批判のポイント
●労働力だけが「可変資本」ではない
 マルクスは資本のうち原料や建物、土地、機械を価値を生み出さない「不変資本」とし、労働力のみが価値を生み出す「可変資本」とした。こうした分類はマルクスがそう規定しただけのドグマであって科学的な根拠があるとは言い難い。

●マルクスは機械の交換価値だけを見て使用価値を無視した
 機械はその形態や構造からなる交換価値(価格)だけがあるのではなく、必ず使用価値(機能・性能)がある。労働者には労働力の価値と労働を区別しておきながら、機械についてマルクスは使用価値を故意に無視した。だが、使用価値すなわち機械の機能・性能が商品に価値を移転させたり付与したりする源となる。

●減価償却は交換価値(価格)についてのみ該当する
 機械は摩滅しその分は減価償却されるので価値はその分、商品に移転するだけとマルクスはした。しかし、摩滅するのは形態や構造などの交換価値(価格)の部分であって、減価償却と機械の機能とは別次元の話である。

●企業が機械を導入するのはその機能・性能によって新たな利潤が得られるからである
 もし機械が価格の価値しか商品に移転できないなら企業は機械を導入しても利潤が得られないことになり、機械を導入する意味がなくなる。機械を導入するのはその機械の価格より以上の利潤がその機能・性能から得られるからにほかならない。
 
●機械も価値を生み出すという結論になる
 このように機械もその性能によって労働力と同じか、あるいはそれ以上の価値を生産する「可変資本」と見るのが正しい見解である。