勝共思想・勝共理論

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29,マルクス経済学・4 捏造された「複雑労働」の概念

マルクス経済学・4
捏造された「複雑労働」の概念
■その主張と批判
 マルクスによれば、商品の価値はそれを生産するにあたって社会的に必要な平均労働時間によって決定され、それが現実の商品の交換価値(商品相互の量的な交換比率)となって現れるといいます。
 そして、この交換価値は現在の貨幣経済下においては現実の商品の価格となるというのです。しかし、実際はどうでしょうか。実際の価格はその商品を生産するにあたって必要とされた平均労働時間と必ずしも正比例しないのが現実です。
 前回紹介したように、ラジオとテレビでは仮に同一の労働時間が費やされて生産されたとしても、両者の価格は違っています。場合によっては一つの商品が他の商品の二倍も三倍もすることが希ではありません。必ずしも平均労働時間イコール価格とはならないのです。
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 そこでマルクスはこの矛盾を克服するために「複雑労働」という概念を作り出しました。つまり、図のようにテレビの労働はラジオと比べて複雑で、同じ10時間の労働でもテレビのそれを単純化すると、100時間に相当する、だから価格は10倍も高くなると主張したのです。
 マルクスは次のようにいいます。
 「複雑労働は、強いられたあるいはむしろ複合された単純労働にすぎないものとなるのであって、したがって、複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる。この整約が絶えず行われているということを、経験が示している」
 「それぞれ異なった種類の労働が、その尺度単位としての単純労働に整約される種々の割合は、生産者の背後に行われる一つの社会的過程によって確定され、したがって、生産者にとっては、慣習によって与えられているように思われる」(『資本論』第一巻)
 しかし、こうした言い分こそ、労働価値説のまやかしを自ら告白しているようなものです。
 たとえば、「複雑労働のより小なる量は、単純労働のより大なる量に等しくなる」ということは、労働の質を取り上げているわけですから、商品の価格が単にその中に投入されている「社会的必要平均労働時間」によって決定されないことを意味しています。
 仮に「複雑労働」の「単純労働」への還元、単純化理論を認めるとしても、マルクスによればその還元は「生産者の背後に行われる社会的過程」や「慣習」によって確定されるとしているのは、何とも矛盾に満ちています。このことはマルクスが主張した理論、つまり商品の価値は「それの生産に用いられた労働の分量によって決定され」(『賃金・価格および利潤』)るものであり、商品の流通過程では何ら価値の形成はなされないとした考えとは、決定的に食い違っているからです。
 とりわけ「慣習」によって還元の換算率が決まるとしているのは、意識が存在の在り方を決めることを意味しており、唯物論の基本的立場とも根本的に相いれないといえます。
 マルクスは、価格は交換価値すなわち労働量の貨幣的表現であり、価格が決定される前に交換価値である労働量がまず定められると主張しました。これが労働価値説です。この説によれば、商品は市場に出る前に、生産過程で労働量によってその価値(交換価値)が決定され、後に市場でその価値を貨幣で表現したのが価格であるということでした。
 したがって市場で商品が交換される前に価値は決定されていなければならないはずです。ところが、複雑労働の単純化論は、市場において交換される時、その価格の比率を見て初めてテレビがラジオの10倍の労働量に該当することがわかるようになっています。
 つまり労働価値説では労働量によって商品の価値(価格)が決定されるといっているのに、単純化理論では商品の交換(価格)によって労働量が決定されるということになってしまうわけです。これはまさに「循環論法」であり、詭弁にほかなりません。
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 マルクスは、商品の価格はその商品の交換価値(労働量)の貨幣的表現であるといいました。しかし、前回の「批判のポイント」でまとめましたように、採掘や捕獲だけで生産労働なしに商品となりうる自然物の例や、労働を加えなくても保管しておくだけで価値が増大していく商品や、労働力とは明らかに無関係な知識や技能、アイデア、情報のような商品といった例がいくらでもあります。このような場合、決して、労働量を尺度として価格を決定することはできません。
 かつてソ連で見られたことですが、いくら労働量を加えても粗悪品だったり、消費者の嗜好に合わなければ、商品となりえない場合がしばしばあります。むろん、ソ連の場合はそれ以外に商品がないから国民は粗悪品でもがまんしていましたが。
 中国では計画経済から市場経済へと転換することによって実に多くのことを学びました。市場とは競争を導入することですから、粗悪品は価格を下げない限り売れません。いくら労働量を投入しても売れないものは売れないのです。つまり商品になりません。商品の価格が労働量に等しいというマルクスの主張を今の中国で信じる人は、唯の一人もいないのです。
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 「社会的必要労働時間」もきわめて疑わしい概念です。かつてソ連ではこの時間の計算に四苦八苦しました。ソ連邦科学院経済学研究所の『経済学教科書』(1962年発刊)は次のように述べています。
 「社会主義的計画経済のもとでの数学と電子計算機の現在の発展水準は、社会的労働の計算を、価値についてのみならず、直接に労働時間においても、できるだけ正確におこなうことを可能にしている」
 しかし、本当に可能になったのかというと同教科書は続けてこういいます。
 「この複雑な課題をとくためには、われわれの経済における生産物の生産にたいする総労働支出を計算する方式論にさらに工夫をくわえる必要がある。複雑労働を単純労働に換算することについていえば、この問題の解決には、さまざまな技術資格の労働にたいする支払の連関を規定する賃率体系の経験を利用することができるかも知れない」
 電子計算機をもってしても社会的必要労働時間の計算が困難であると自己告白しているのです。62年以降、電子計算機はコンピューター技術によって天文学的な発展を遂げましたが、ソ連崩壊(91年)に至るまで、一度たりとも計算ができたとの話は聞きません。今後もいくら技術革新が計られても無理でしょう。
 「社会的必要労働時間」など計算できるわけがないのです。にもかかわらず一世紀前に生きたマルクスは、一商品の価値は「社会的必要労働時間」によって決定されると断言したのです。虚言、ペテンもはなはだしいといわざるを得ません。
 商品の価値は決して労働時間で決定されるものではないのです。「社会的必要労働時間」は捏造された概念でしかありません。
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 では、実際の商品価値はどのように決められるのでしょうか。次回に代案を見てみましょう。

■資料

▼生産過程のみで価値が生まれ流通過程では生まれないとのマルクスの見解
 「一般的な法則は、ただ商品の形態転化だけから生ずる流通費はすべて商品に価値をつけ加えない、ということである。流通費はただ価値を実現するための、または価値を一つの形態から別の形態に移すための、費用でしかない。この費用に投ぜられる資本(これによって指揮される労働も含めて)は、資本主義的生産の空費に属する」(『資本論』)

■批判のポイント

●「社会的必要労働時間」は計算上も困難であり、それを商品の価値とするのは独断にしかすぎない
 ある商品を生産するのに必要な社会的な総労働時間をその商品の総生産量で割ったものが社会的必要労働時間であり、それが商品の価値に等しい、とマルクスは主張する。しかし、これは独断にすぎない。優秀な生産条件の下で作られた商品の場合、一個当たりに要した労働時間は短くとも価値は高く、悪い生産条件の下で作られた商品の場合、一個当たりに要した労働時間が長くても価値は低いというのが一般的事実であり、それを平均化しても何ら意味をもたない。平均概念の濫用である。

●「複雑労働」という概念は労働価値説の間違いを隠蔽するために「循環論法」によって捏造されたものである
 同一の労働量で価格が違う商品があり、単純に労働量で価値を計る矛盾に直面したマルクスは「複雑労働」と「単純労働」という概念を作り出した。価格の高い商品は「複雑労働」をし、これを「単純労働」に換算(単純化)すると労働時間が長くなるから価格が高いとした。しかし「複雑労働」の単純化による量の決定は価格から逆算して計算しているので、明らかに「循環論法」に陥っている。

●商品の価格は需要・供給・統制・計画・協定・独占などによって左右されており、労働量のみで決定されていない
 マルクスは市場価格は変動しても、平均してみれば商品は自然価格(価値を貨幣で表現したもの)で売られているとしている。しかし、価格の変動がある線を中心として上がったり下がったりするのは自由放任主義時代にあった現象で、今日の実際の価格は需要・供給や統制、独占などの要因でさまざまに変化しており、労働量を根拠とする自然価格に引きつけられることはない。