勝共思想・勝共理論

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36,マルクス経済学・11  企業は家族的な「共同体」


マルクス経済学・11
[ポイント]利潤は価値の創造から生まれます。価値の創造とは、人間のもっている創造性を発揮することですから、価値の創造には、労働者の労働のみならず、各種のサービス活動、科学者の研究、芸術家の創作活動なども含まれています。したがって第一次産業、第二次産業のみならず、商業、運輸、通信業、公務、知識産業(情報産業)、レジャー産業などの第三次産業においても、企業は利潤を生産できるということはいうまでもありません。これが統一思想の利潤観です。

  企業は家族的な「共同体」
 ■その代案

 前回紹介しましたように、統一思想の利潤観の特徴は、人間が関わって価値を創造したことによって利潤が生じたのだから、労働者の賃金は生産費として支払われるのではなく、企業収益(利潤)からその利潤の分配という形で支払われるべきであるとするところにあります。
 このように賃金を利潤の範疇(はんちゅう)に入れるところがマルクスや近代経済学の利潤説と違っているところです。といっても現代の経済学において利潤説が定まっているわけではありません。一般的には原材料、燃料費、減価償却費、利子、地代、賃金などの生産費を差し引いた残りを利潤と見ます。
 では従来の利潤説がどのようなものか、ポール・アンソニー・サムエルソンの『経済学』によると次のようなものがあります。
?@「暗黙的」要素収益としての利潤
 利潤と見なされているものの一部は、実は企業の所有者が提供する労働に対する収益であったり、彼が所有している自然資源に対するレント(地代)収益であったり、また所有資本に対する利子に当たる場合があります。利潤のこの部分、すなわち自分が自分で使う要素の収益に対しては、経済学者は暗黙的賃金、暗黙的レントおよび暗黙的利子の名を与えています。 
?A企業努力や新機軸に対する報酬としての利潤
 これは利潤とは新機軸の開発に対して支払われる一時的な過剰利益であるという見方です。シュンペンターによれば、型にはまった日常的な経営の仕事は賃金を稼ぐだけであって、それは利潤とは見なされず、利潤は真正の企業的行動の結果として生ずるものだといいます。
?B危険、不確実性と利潤
 新機軸の開発には不確実性がつきものですから、真の利潤は不確実性と結びついているというのがナイト(シカゴ学派)の説です。油田の発見、幸運な特許、マーケティング面での成功、投機的成功などが利潤における偶然の要素の役割を例証しているとしています。
?C危険負担のための割増し金としての利潤
 利潤は危険負担の報酬であるという見方です。危険を嫌がることに対する補償として、また危険負担意欲を引き出すための手段としての、割増金が支払われるといいます。安全投資に対する純粋利子の上に、危険割増金が加えられるという考え方で、これが経済学者の伝統的な利潤観だとしています。これによれば価格(競争的価格)は次のようになります。
 競争的価格=賃金+利子+地代+危険割増金としての利潤
?D「独占収益」としての利潤
 利潤は独占による収益であるという見方です。まず「自然の稀少性」に対する競争的レント(地代)があります。例えば最適の土地を所有していることから得られるレントがその例です。次に「人為の稀少性」から得られる独占者の利益があります。買い占められた土地とか独占された商品などから得られる収益がその例です。
?Eマルクス的剰余価値としての利潤
 すでに紹介したように労働者の剰余労働(不払い労働)によって作り出された価値、すなわち剰余価値の貨幣的表現が利潤であるとし、資本家がこれをすべて取得(搾取)してしまっているとします。
     ▽
 このように従来の利潤説はいろいろあります。おおむね利潤とは、企業家の得る収益であるとしており、労働者の受け取る賃金は生産費の一つであると見なしているのが特徴といえます(マルクスも賃金は必要労働分=生活必需品の価値としました)。
 しかし、私たちはそうした見方に立ちません。統一思想では賃金は生産費として扱うべきではなく、企業家と労働者が共同で得た企業の収益、すなわち利潤の中に含まれるべきであるととらえます。つまり、労働力は商品としてではなく、人格として扱うべきであると考えるのです。
 また統一思想では前回述べましたように、利潤とは「企業の価値創造活動の実績に対する社会的報酬」であるとします。企業(生産者)は価値の実現(創造)によって消費者(社会)に奉仕し、これに対して消費者が支払う報酬が利潤の本質ととらえるわけです。 では、そうした立場から前述の従来の利潤説を検討してみましょう。
 「暗黙的」要素収益としての利潤という見方は、企業の所有者の提供する労働やレント収益を取り上げているわけですから当然、企業家の創造活動と見なすべきです。企業努力や新機軸に対する報酬としての利潤も同じことがいえます。また危険負担のための割増金としての利潤も、企業家などの価値創造の一環といえます。ですから、いずれもが価値を創造して消費者や社会に奉仕したことになり、これらの報酬としての利潤ととらえられるので問題はありません。したがって統一思想の利潤観と異なるところはありません。
 しかし、独占収益としての利潤説は違います。ことに「人為の稀少性」においては、社会(消費者)に対する奉仕を越えて自己中心的な収益性の追求のみがなされていますから、統一思想の利潤観とはあい入れません。むろん、マルクスの利潤観も他の人々の価値創造を認めず労働者だけの労働のみが価値を創造するとするのですから、これも一種のエゴイズムです。当然、統一思想の利潤観と一致しません。
 統一思想の利潤観はたしかに今までの伝統的な経済学にはなかったものかも知れません。しかし第一次大戦後、企業の経営目的な利潤の追求だけではなく労働者の賃金の追求をも含めたものにすべきとの考えも生まれてきており、必ずしも異説というわけではありません。
 たとえばドイツの経済学者のニックリッシュは、労働者に対する報酬と利潤を包含したものを「成果」と呼び、これにより賃金は費用の支払いではなくて「成果」の分配という概念を提唱しました(大橋昭一他著『経営参加の思想』有斐閣親書)。またラッカーは付加価値が企業の経営目的であり、賃金は付加価値の分配であるとの「生産価値」説を唱え、レーマンは「創造価値」説、ドラッガーは「寄与価値」説を唱えました。いずれも労働者に対する報酬を利潤の中でとらえる考えといえます(宮俊一郎著『付加価値のはなし』日本実業出版社)。
 しかし、伝統的な経済学は企業家の収益としての企業利潤の追求を前提として理論が構築されてしまっているので、労働者の賃金を生産費としてとらえる傾向が強いのです。つまりマルクス経済学も近代経済学も問わず従来の経済学では、企業とは企業家を中心とした営利組織体としてきたわけです。

 ■資 料

▼ヘンリー・フォードの「奉仕の精神」
 「企業は利潤追求のために存在するものではなく、生産を通じて人々に『奉仕』するために存在するのである。ここでいう『奉仕』とは、?@生産のコストを引き下げ製品の売価を引き下げることによる消費者に対する奉仕と、?A従業員に高い賃金を与えることによる従業員への奉仕を意味している。つまり、製品をその価値よりも安い価格で消費者に提供し、従業員の働きよりも高い賃金を支払うことによって、奉仕は成立すると考え、企業は社会から受け取るよりも多くの価値を提供することによって奉仕するという。そして、このような奉仕ができない企業は社会的に存在する理由がないとフォードはいう」
(生駒道弘著『経営学の歩み』同文館)

  ■代 案

●統一思想の企業観
 統一思想から見れば、企業は経営者と従業員からなる共同体であると同時に一つの家庭であると見る。従来の企業観には家庭観が欠落している。家庭としての企業とは、簡単にいえば、心情を中止とした家庭倫理を基盤とした、倫理的組織であるということである。

●従来の企業観の変化
 従来の企業観にも近年、変化が見られる。経営学において、とりわけドイツでは企業を資本と労働、出資者もしくは経営者と労働者の共同のものと見る「経営共同体論」と呼ばれる企業観が生まれている。この思想を体系化したのが、本文にあるドイツのニックリッシュである。また企業を労資のパートナー的な結合体と見たフイッシャーの「経営パートナーシャフト論」といった考えもある。
 「経営共同体論」は家庭観に近い考えといえる。日本が経済大国になり得たのは、優れた労使関係とされ、終身雇用制を背景に労働者の帰属意識が「企業一家観」をもたらし、減量経営やQC運動(品質管理サークル活動)などに参加し、非共産主義労組は「企業主義的協調組合運動」を展開して企業の発展に貢献した。企業を一家族とし企業家と労働者を親子関係としてとらえ、その一体感のもとで会社を発展させてきたもので、原理的な発展といえる。