勝共思想・勝共理論

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35,マルクス経済学・10  創造力が利潤を生産する


マルクス経済学・10
[キーポイント] マルクスは剰余価値説において価値の源泉を労働力におき、利潤を生み出しているのは労働者であるとしました。しかし、そうした考え方は間違いでした。ならばいったい利潤はどのようにして生まれるのでしょうか、今回はその代案を提示します。利潤(の要素)は労働力ではなく、創造力を持つ多くの生産要素の授受作用によって生産されるというのが統一思想の見解です。それが市場において現実的な利潤となるには、いうまでもなく生産者と消費者の間で授受作用(売買)がなければなりません。企業(生産者)は価値の実現(創造)によって消費者(社会)に奉仕し、これに対して消費者が支払う報酬が利潤の本質です。それゆえ利潤は「企業の価値創造活動の実績に対する社会的報酬」といえます。

創造力が利潤を生産する
■その代案
 マルクスの場合、利潤をどのように見ていたでしょうか。商品の価値から費用価格、すなわち生産手段の価格と労働力の価格(賃金)を差し引いたものを利潤とし、利子と地代は利潤の一部から支払われるものとしています。
 これに対して今日の経済学(近代経済学)では、売上高(または生産額)から使用者費用(原材料・燃料費・減価償却費など物的コスト)を差し引いたものを付加価値といいます。付加価値は一つの企業が新たに生み出した価値、すなわち企業が実現した所得を意味します。この付加価値から労働者には人件費(賃金)を、貸付資本(金融)に利子を、そして地主に地代を支払いますが、物的資本財以外の、このような生産要素に対するコストを要素費用といいます。付加価値からこの要素費用を差し引いたものが企業の利潤とされているのです。
 つまり、企業の所得(付加価値)から借り入れた資本に対する利子、借り入れた土地に対する地代、そして労働者に支払う賃金などを差し引いたものが利潤とするのです。
 このように近代経済学もマルクス経済学もいずれの場合も、労働者の受け取る賃金は、生産費用のひとつと見なしています。
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 しかし、統一思想はそうした立場に立ちません。私たちは企業の売上高から使用者費用と利子、地代を差し引いたものを企業の利潤または企業の収益と規定すべきと主張します。それは利子や地代は、原材料や燃料費、減価償却費などと共に費用(本当の意味での生産費)と見るべきものであるのに対して、労働者が受け取る賃金は費用と見なすべきではなく、企業が得た収益(すなわち利潤)の中から労働者に分配されるものと見るべきと考えるからです。ここが統一思想の利潤観が既存のものと違うところです。
 なぜ違うのかというと、企業の概念が違っているからです。従来の経済学では、企業とは企業家を中心とした営利組織体とされており、労働力は企業の外部から提供されるものと見なされています。しかし、私たちは企業家および出資者のみならず労働者も企業経営の人的構成員の一部(家族的関係)であると見なすべきだと考えます。
 それは企業に利潤を生じせしめたものは何か、それを探ればおのずから答えが出ることでしょう。
 商品それ自体を生産する実体(本質)は何かというと、人間のもっている創造力であり、生命力です。すべての生物は生命力をもっています。植物の場合なら一粒の種が芽となり幹となり、枝、葉、花、実へと成長します。動物の場合なら一つの受精細胞が生命力によって成長して親動物となり、子を繁殖します。
 こうした動物の中には物を創造する能力を持ったものがいます。たとえば蜘蛛は体から人を紡いで空中に網をはり、蜂や鳥は巣を作ります。こうした動物の創造力は本能的創造力と呼ぶなら、人間はそうした本能的創造力だけでなく、これとは比較できないほど高度な創造力をもっているといえます。人間のそれは理性的創造力、すなわち技術的創造力です。この理性的創造力によって絶えず新しい構想(アイデア)を生みだし、新しい物を作ります。このような人間の有する理性的創造力、技術的創造力によって利潤が生産されるのです。
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 企業に利潤を生じせしめた創造力は、商品の価値実現に関する直接的または間接的な活動能力です。労働者の労働力は当然のことながらそのような創造力の一つの形態です。しかし労働力だけが創造力ではありません。資本家(出資者が同時に経営者である場合は企業家と呼ばれる)の企業活動の能力も創造力のひとつの形態なのです。実際、企業家の中には労働者に劣らず、いやそれ以上に精神的、肉体的に活動して生産に寄与している人も少なくありません。
 さらに技術者による機械の管理や事務員による事務活動の能力もやはり創造力の一つの形態です。機械とはいったい何でしょうか。それは科学者や技術者の技術力と創造力の延長または体化物といえるもので、機械の働きも創造力の一つの形態といえます。ですから機械も価値を生産するのです。したがって創造力をもっているこれらの諸要素がすべて利潤の生産に寄与していたといえます。
 しかし、これらの要素はそれぞれに単独ではその創造の能力を発揮することができず、したがって利潤を生産することはできません。利潤は、創造力をもつこれらの諸要素やその他の物的要素が、よい商品を作り消費者に届けようといった共通目的を中心として授受作用をすることで始めて生産されるようになるのです。このときの利潤とは利潤の要素、素材のことで収益としての現実的利潤ではありません。
 このように企業において商品を生産して利潤を実現するには、資本家(出資者)、経営者、技術者、事務員、労働者、機械、原材料、土地などの諸要素がひとつの目的のもとに授受作用を行っています。またこの授受作用は人的主体(資本家、経営者、技術者、事務員、労働者など)と物的対象(機械、原材料、土地など)の間の授受作用ということもできるでしょう。
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 ですから利潤は、授受作用の主体である資本家(および経営者)と労働者(技術者、事務員を含む)が共同で生産したことになります。そのとき資本家は生産のために必要な資本(機械、原材料、土地など)を提供し、経営者は企業の経営を行い、労働者はさまざまな労働力(技術力)を提供するのです。そうしてそれぞれが一定の創造力として商品生産に寄与しているのです。
 このように企業家(資本家、経営者)と労働者が協同で利潤を生産するのですから、労働者の賃金は利潤の中から配分されるところの、配当金の形の報酬として理解されるべきでしょう。企業家の取得する収益(配当)も、利潤の中から配分される配当金なのです。さらに利潤の一部は税金として国と地方に収められ、残りは企業の留保収益(未配当金)となります。
 ところで機械ですが、機械も創造力の一つとして利潤の生産に寄与していますが、機械は生産手段として用いられる物的要素ですから、機械そのものに利潤が配分されるわけにはいきません。機械を含む生産手段が利潤の生産に寄与した部分は、生産手段の所有者である資本家あるいは企業に帰すべきものでしょう。
 したがって資本家が利潤を取得するということは、マルクスが主張するように剰余価値の搾取ではありません。資本家もその創造力を発揮して、企業活動を行ったり資本を提供したりするのですから当然、企業の収益(すなわち統一思想でいう利潤)の一部を受け取ることができるのです。
 もちろん、その際、資本家が労働者に比べて企業の収益、利潤の中から過当に取得してはならないことはいうまでもありません。今日までそこが問題だったのです。マルクスらが問題にした資本家による搾取とは労働者が生産した剰余価値(利潤)の搾取ですが、実際はそうではなく、資本家と労働者が協同で生産した利潤のうちから、資本家が不当に多く取得していたことが問題だったのです。
 したがって、問題の解決は、利潤をいかに適切に、公平に分配するかということにかかってくるのであり、結局は企業倫理の問題となってくるのです。

■資 料

▼資本家が収益を過当に取得することに対するサムエルソンの見解
「利潤に対する反感のかなりの部分は、実は、要素所得の不平等からくる貨幣所得分配の不平等が極端であることにたいする反感にほかならない」(ポール・アンソニー・サムエルソン『経済学』下巻)

■代 案

●利潤の発生経路
 マルクスは利潤は生産過程において労働力によって生産されるといったが、実際は生産過程で生産されるものは利潤それ自体ではなく、利潤となりうる根拠または素材である。それがすなわち商品の使用価値(有用性)である。商品が市場において売買されるとき、その素材を根拠にして貨幣で表示される現実的な利潤が形成される。つまり、植物の種に相当するような、ある素材(利潤となりうる要素)から市場で現実的な利潤が形成される。

●利潤の本質とはなにか
 企業が価値の実現(創造)によって消費者(社会)に奉仕したことに対して消費者(社会)が支払うところの報酬が利潤である。価値の実現(創造)とは、人間が創造性を発揮して商品の使用価値を創造したり、あるいはその使用価値を保管あるいは移動したりすることによって、消費者大衆に便宜を提供すること、すなわち社会へ奉仕することを意味している。つまり「為に生きる」ことが価値の実現であり、その報酬が利潤である。

●統一思想による利潤の定義
 利潤とは「企業の価値創造活動の実績に対する社会的報酬」である。したがって企業が利潤を得るには、消費者に奉仕して消費者に効用を与えることが前提になる。労働価値説の代案で明らかにしたように、交換価値を心理量で表現した場合、消費者においてはそれを一定の満足量(効用効果量)であったように、利潤も心理量で表現すれば、その本質は感謝量であり、その貨幣的表現が現実的利潤であるといえる。この感謝量は満足量(効用効果量)の一部といえる。