勝共思想・勝共理論

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18,唯物史観・4   家庭を壊す生産関係唯一論

唯物史観・4
家庭を壊す生産関係唯一論
[キーポイント]
 唯物史観の考え方に「生産関係は客観的で最も基本的な社会関係である」というものがあります。人間は人や自然とさまざまな関係を結んで生きています。家庭での親子、兄弟といったつながりや地域コミュニティでの人のつながりなど多様です。しかし、物質生活を全ての基礎に据える唯物史観はそうした人間関係を顧みることなく、経済的な生産関係を「客観的で最も基本的な関係である」と規定するのです。そして生産力の発展や生産関係は「人間の意思から独立して存在している」として、革命必然論をくり広げます。今回はその間違いを探ります。



■その主張と批判
 まじないの力で動けなくすることを呪縛といいますが、共産主義は人を生産関係の中に呪縛してしまいます。
 生産関係というのは人が生産過程でとり結ぶ社会的関係のことをいいます。具体的には生産手段が誰によって所有されているかを基礎として捉える人間関係のことを生産関係と定義します。そして人間は社会生活において一定の自分の意志から独立した生産関係を結ぶというのです。
 たとえば、資本主義的生産関係といえば、生産手段である工場や土地、機械などを所有する資本家と、生産手段を所有せず自らの労働力を商品として売らざるを得ない賃金労働者の関係を指します。資本家と労働者の間には支配・被支配の関係が結ばれており、人間は必ずそのどちらか一方に属し、その生産関係の中に巻き込まれていくと説明します。
 これが客観的、物質的な関係であって、社会のあらゆる諸関係の中で最も基本的なものであるというのです。物質をモノの本質とした必然的帰結として、人間の精神的関係を軽視し物質的関係すなわち生産関係が基本とする思想が現れたわけです。
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 こうした生産関係は生産力とともに人間の意志から独立して存在しているとします。マルクスは次のようにいいます。
 「人間は彼らの生産諸力・・人間の全歴史の基礎をなしているもの・・の自由な決定者ではありません。なぜなら、どの生産力も一つの獲得された力であり、以前の活動の所産であるからです」(『資本論書簡』「アンネンコフへの手紙」)
 「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ」(『経済学批判』)
 このように生産関係が最も基本的な社会関係であり、しかも生産力も生産関係も人間の意志から独立して存在しているとマルクスは強調するのです。
 はたして生産関係が人間にとって最も基本的な社会関係なのでしょうか。私たちの日々の暮らしを振り返る限り、マルクスの主張に同調する人は必ずしも多くはないでしょう。
 なぜなら私たち人間にとって最も基本的な人間関係は何といっても家庭関係といえるからです。親子関係や兄弟関係は生産手段の所有をめぐる人間関係ではありません。愛によって成り立っている共同体であり、ここで人間は精神的にも肉体的にも健全に育っていくようになっています。人はパンのみに生きるにあらず、です。
 ドイツの社会学者テンニースは人間社会を家族や地縁・血縁集団に代表されるゲマインシャフト(共同社会)と利益・機能集団に代表されるゲゼルシャフト(利益社会)とに分類したことで有名ですが、まさにマルクスの生産関係は後者のみに焦点を当てた偏った見方というほかありません。物質を至上のものとするので、生産関係のみに目が向くのです。
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 生産関係は人間の意志から独立しているというのも本当でしょうか。
 旧ソ連のマルクス主義者であるコーンフォースは次のようにいいます。
 「たとえば、マニュファクチュアがはじめて生まれたとき、これがはじめた事業主は、新しい巨大な生産力をつくりだす計画などはなにももっていなかった。彼らはただ自分の目の前の利益を求めていたにすぎなかった。マニュファクチュアをやってゆくために、彼らは賃金労働者を雇いはじめた。いいかえれば、資本主義的な生産関係を結びはじめたのである。彼らがそうしたのは、なにも彼らが資本主義的を樹立するという、遠大な野心的な計画をもっていたからではない」(『史的唯物論』)
 このようにコーンフォースは、マニュファクチュアにおいて動きだした生産力の発展は、決して人間がそうしようと思って行ったものではなく、自然発生的に、人間の意志からは独立して、一部の人々が彼ら自身の目前の利益を追求した結果として起こったものであったと述べています。
 たしかにマニュファクチュア事業主も産業革命をもたらしたワット(蒸気機関)やアークライト(水力紡績機)、スティーヴンソン(蒸気機関車)も、資本主義社会を形成するようになることは意識していなかったかも知れません。しかし、だからといって産業革命という歴史的な生産力の発展は人間の意志から独立していたとはいえません。生産力の発展が意志(欲望)に起因していることについてはすでに前回述べたところです。
 同じように生産手段の所有をめぐる人間関係すなわち生産関係を決定したのも、当時の社会の指導者(政治家や事業家)の意志(欲望)や思想が主体的な役割を果たしたのです。資本家が労働者を雇って工場を経営しようとする欲望(意志)がなければ資本主義的生産関係は生まれようがありません。マルクスが言葉を弄して生産関係を「人間の意志から独立した物質的な関係」と強弁しようとしても事実はそうなっていません。
 実際、社会主義国ではレーニンや毛沢東らによって革命が行われた後、共産党の政治指導者の強力な意志によって生産関係(社会主義)が決定させられ、コルホーズや人民公社が造られたことは周知のことでしょう。
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 なぜマルクスは「生産力および生産関係の発生と発展は人間の意志から独立している」との架空の論理を組み立てなければならなかったのでしょうか。
 それは資本主義社会における生産力の担い手は被支配階級である労働者であり、生産力発展のための階級闘争は誰の意志でもっても防ぐことはできないということをいいたいがためです。つまり新しい生産関係である社会主義社会(共産主義社会)の到来は人間の意志とは無関係に必然的であることを合理化しようとして、こうした理論を構築したといえます。
 もし、生産力と生産関係の発生と発展が人間の意志に関係があるとするなら、精神的な改善によって社会は発展させることができるということになります。とすれば、精神改革を奨める宗教や道徳倫理が社会を改善できることが可能になり、暴力革命以外に社会を変革する道がないとした共産主義を正当化することができなくなってしまいます。これでは困るので以上のような理論を作ったのです。
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 しかし、考えてみれば共産主義自身がこの論理の矛盾を暴露しています。唯物史観で共産主義社会の到来は人間の意志から独立しており必然的と主張しておきながら、『共産党宣言』は次のようにいいます。
 「共産主義者は、これまでのいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する」
 ここでは共産主義社会の実現は、共産主義者の使命感と革命的意志によってのみなされると宣言しているのです。このことは一社会の形成において、人間の意志が決定的役割を果たしていることを自ら告白する何ものでもありません。

■代案■
●性相的人間関係と形状的人間関係

 統一思想から見れば、人間は性相(心)と形状(体)の二側面すなわち精神的側面と物質的側面をもっている。したがって人間関係には性相と形状の両面があり、二種類に分けることができる。一つはより性相的なもの(精神的なもの)を中心とした人間関係であり、もう一つはより形状的なもの(物質的なもの)を中心とした人間関係である。前者を性相的な人間関係、後者を形状的な人間関係と呼ぶことができる。
 前者の代表的な例は家族関係を基盤とした愛によって結ばれる人間関係すなわち倫理関係であり、後者の代表的な例は生産と消費を中心とする経済的な人間関係である。統一思想はそのうち倫理的関係がより本質的な人間関係であり、それゆえ経済的な人間関係は倫理関係を基礎にしなければならないと主張する。

●欲望の関係としての生産関係
 人間は性相的人間関係である倫理関係と形状的な人間関係である生産関係を結ぶが、倫理関係も生産関係も各々性相的側面と形状的側面の統一体であって、それぞれにおいて、性相的側面が主体、形状的側面が対象になっている。
 たとえば資本主義的生産関係の場合、資本家は所有欲と利潤追求欲に基づいて生産手段を所有しており、労働者は収入(賃金)を得るために欲望に基づいて生産活動を行っている。生産関係は欲望(意志)と物質の二側面(性相的側面と形状的側面)から成り立っているといえる。そのうち欲望(意志)が原因的であり、物質的側面は結果的である。
 したがって生産関係は本質的に見るとき、欲望の関係であるということができる。

■資料■
▼唯物史観では生産関係が人間の意志から独立して発展するとしながら、人間の意志で社会主義が実現するという矛盾を露わにする日本共産党綱領の一節
「この革命をなしとげること、すなわちアメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする勢力の反民族的、反人民的な支配を打破し、真の独立と政治・経済・社会の民主主義的変革を達成することは……労働者階級の歴史的使命である社会主義への道をも確実にきりひらくことができる」(『日本共産党綱領』)