勝共思想・勝共理論

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11,唯物弁証法・4   何でも対立物に仕立てる

唯物弁証法4
何でも対立物に仕立てる
[キーポイント]
共産主義の思想的根幹をなしているのが「対立物の統一と闘争の法則」(矛盾の法則)です。それは存在物をすべて対立物と捉え、その闘争によって発展するという「法則」です。エンゲルスやレーニンはその証明として対立物の事例を上げていますが、彼らの主張どおりにそれを対立物(矛盾)と認めることはとうていできません。前回は磁石の南極と北極、蠕虫の口と肛門、物体の運動の3つの例が決して対立物ではないということを見てきました。今回はその続きです。

■ その主張と批判 ■
 エンゲルスは対立物の例として「生物の生と死」をあげ「(生命も)事物そのもののなかに存在するところの、たえず自己を定立しかつ解決しつつある矛盾であるわけだ。そしてその矛盾がやめば、ただちに生命もやみ、死がはじまるのである」(『反デューリング論』)と述べています。
 つまり、生物は生と死が対立物としてその個体内に存在しているというのです。なんとも不可解な主張といわざるを得ません。たしかに生と死は対立した概念としてとらえることができるでしょう。しかし、ここで注意してほしいのは、唯物弁証法の対立の概念はエンゲルスが述べているように「事物そのもののなか」に対立物が共存しているという矛盾なのです。前回紹介した磁石の北極と南極、蝉喘虫の口と肛門も一存在物のなかに共にあるのです。すると生物の内部に生と死が共存していることになりますが、これはあり得ることでしょうか。
 生物は生きているか、死んでいるかであって生きていたり死んでいたりすることなどないのです。
 今年3月、鹿児島市の本郷かまとさんが世界最長寿としてギネスブックに認定されました。ことし114歳だそうです。本郷さんは19世紀から3つの世紀を114年間、生きてこられたわけであって、生きていたり死んでいたりされたのではありません。本郷さんは生き続けてこられたからこそ今があるのです。
 むろん、ひとつひとつの細胞の不断の交替はあるでしょう。このことを捉えてエンゲルスは「(生物は)どの瞬間においてでも、同一のものであって同一のものではない。どの瞬間においてでも、それから外からもたらされた物質を消化し、別の物質を排泄する。どの瞬間においても、その体内の細胞は死んでゆき、新しい細胞がつくられてゆく。いずれにしても遅かれ早かれ時がたてば、この体内の物質はすっかり新しいものになり、別の物質原子におきかえられる。従って、どの生物もつねに同一のものでありながら、しかも別のものなのである」(同)と、細胞の生と死ををもって生物の生と死の対立物の証拠としてあげています。
 しかし、ここには巧妙な概念のねじ曲げがあります。人間における生と死の対立をいうとき、生は「人間の生」を、死は「人間の死」を意味していなければならないはずです。「人間の生」の対立概念は「人間の死」だからです。これに対して細胞の死は「人間の死」とは何の関係もありません。いえ、かえって「人間の生」のために古い細胞は死んでいき、新しい細胞と交代しているのです。人間以外の生物でも同じことがいえます。
 単細胞生物の場合は「細胞の死」はそのまま「生物の死」を意味していますが、それ以外の生物では細胞の死を生物の生や死の概念に持ち込むことは間違っています。そこに生と死が共存することはあり得ないのです。ですから、すべての生物の存在期間中は「生」に対立する「死」はあり得ないのであり、生と死の対立(その共存)として生命をとらえることは全くの間違いなのです。
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 またレーニンは対立物(矛盾)の例として、数学におけるプラスとマイナスをあげますが、これは量的な測定において増加と減少を示す相対的な二方向があることを意味しているにすぎません。また微分と積分を挙げますが、これは演算に二つの方向があるということにすぎません。実際、私たちは必要に応じて微分と積分を使い分けています。たとえば面積や体重を測定するときには積分を、速度を測定するときには微分をというように、どちらかの演算を用いるのです。
 何度もいいますが、唯物弁証法の概念は対立物が同時的に一存在物にあるということ、そしてその対立物の闘争によって発展するということを主張する理論です。そうあるためには両者の同時的関与が要求されます。加算や減算、微分と積分が対立物、矛盾であるとするならこれらは同時に行われなくてはならないはずです。ところが、実際の計算では同時に行われることはあり得ず、加算か減算か、あるいは微分か積分か、計算はいつも一方向的です。ですから、プラスとマイナスも微分と積分も対立物、闘争の関係には決してありません。
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 次にレーニンは力学における作用と反作用をあげます。物体Aが物体Bに力を及ぼしているときには(作用)、物体Bも物体Aに力を及ぼしているのであり(これが反作用)、その二つの力の大きさが等しくて向きが反対であるというのが、作用・反作用の法則です。たしかに作用と反作用は同時的ですから、一見して矛盾のように見えます。 しかし唯物弁証法の概念でいえば、この二つの作用は一方が他方を打倒するような力として作用しなければならないはずです。しかし、実際はそうではなく、相対的に均衡した力による作用なのです。したがって作用と反作用は調和であっても矛盾(対立物)ではありません。
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 レーニンは物理学における陽電気と陰電気を対立物といいますが、磁石で見たようにこれも間違いです。ここに対立や闘争が存在するでしょうか。陽電気と陰電気は互いに引き合いながら原子や分子を構成する力となったり、電場(電界)を形成していろいろな電気現象を生じさせたりしているのです。あえて対立というなら互いに排斥し合う陽電気と陽電気、あるいは陰電気と陰電気をいうべきでしょうが、これも互いに反発するのは陽電気と陰電気が引き合い(ペアとなって)宇宙の秩序を形成するためのものであって、あくまでも主体は陽と陰のペアシステムです。
 化学における化合と分解をレーニンは対立物といいます。微視的に見れば、化合と分解の二つの反応が同時に行われています。ですので一見すると二つの反応が対立(闘争)しているかのように思われますが、そうではありません。個々の分子は化合か分解かのどちらか一方に関与しているのであって、ひとつの分子が同時に化合と分解の二つの反応に関与しているのではないのです。
 また二つの反応のうち、一定の条件の下で一方の反応の速度が他方の速度より大きいので、全体として巨視的に見れば、化合か分解かのどちら一方に反応が進むようになります。つまり、化合と分解にはどこにも矛盾はなく闘争もありません。化合と分解は相対的な二つの反応なのです。
 最後に社会における階級闘争をレーニンはあげます。たしかに社会には階級対立と見られる側面はありますが、それが社会のすべてではありませんし、階級間に必ずしもすべてに闘争があったのでもありません。また闘争があったとしても闘争によって社会が発展したのではありません。詳細は「唯物史観」で述べますが、闘争によって社会の発展はなされず、ただ社会の進む方向性(歴史の方向性)を転換させるのです。
 以上のように唯物弁証法が示した対立物(矛盾)の概念はことごとく間違っています。闘争を正当化するための方便なのです。

■批判のまとめ

【1】対立物とは一般的には互いに排斥、否定し合う関係にあるはずなのに、唯物弁証法のいう対立物はこの概念から逸脱しているのである
 磁石の北極と南極は互いに引き合い磁場を形成しているのであって、対立していない。また磁場は発展とは関係のない静的な現象である。物体の運動を「同一の瞬間にある場所にいながら同時に他の場所にある」矛盾と捉えるが、運動の概念としては根本的に間違っている。ある瞬間もある場所も一定の空間、時間の中の、つまり三次元で存在するのであって、在りもしない停止した時と面積のない場所をあたかも在るように切り取って矛盾とする概念はそれこそ観念論である。
 蠕虫の口と肛門は生存のために必要不可欠なもので対立などしていない。これを対立物とするのは勝手な主張にすぎない。 

【2】唯物弁証法の対立物の概念は事物内部の対立物としておきながら、そうでないものを対立物の概念として持ち込む間違いをおかしている
 人間の生と死を対立物とするが、人間一個体の中で生と死が対立物として共に存在していることはない。人間は生きているか死んでいるかであって、生きたり死んだりしてはいない。個体内の細胞の生と死はあるが、それは個体を生かすためのものであって、それを人間の生と死という概念に置き換えるのはおかしい。生と死の対立する概念を巧みに使い分け唯物弁証法を正当化しようとしているにすぎない。

【3】唯物弁証法が自然界の矛盾とする例は対立・矛盾などしておらず、しかも発展とは関係のないものである
 矛盾の例とするプラスとマイナス、作用と反作用、陽電気と陰電気、化合と分解などは対立・矛盾の概念で捉えるのは間違いであり、演算の方向性や相対的な均衡した力の作用(調和)、あるいは電気現象や相対的な反応にすぎない。それを対立物と規定することはできず、ましてや発展とは関係がない。

■資 料
▼レーニンの対立物の概念
「対立物の同一性(たぶん、対立物の「統一」と言うほうがただしいのではなかろうか? もっとも、同一性と統一という用語の違いは、ここではとくに重要ではないが。ある意味では、両方とも正しい)とは、自然(精神の社会も含めて)のすべての現象と過程のうちに、矛盾した、たがいに排除しあう、対立的な諸傾向を認めること(発見すること)である。世界のすべての過程を、その「自己運動」において、その自発的な発展において、その生きいきとした生命において認識するための条件は、それらを対立物の統一として認識することである。発展は対立物の「闘争」である(レーニン『弁証法の問題によせて』)