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27,マルクス経済学・2 初めに資本主義打倒ありき

マルクス経済学・2
初めに資本主義打倒ありき
[ポイント]マルクス経済学はどのようにして産声をあげたのでしょうか。その概要は本講座の疎外論で明らかにしました。マルクスは人間の疎外問題を解決するには私有財産を否定して労働生産物を労働者の手に奪い返さなくてはならないと考え、そうするには資本主義を打倒する必要があり、そのためには労働者を団結させねばならない。そこで資本主義を打倒する合理的な理由と正当な名分をうち立てようと、『資本論』を書き上げました。つまり、初めに資本主義打倒ありき、なのです。革命のための経済理論、それがマルクス経済学です。

■成立動機と経路
 カール・マルクスが経済学を集大成した『資本論』は、1849年にロンドンに亡命した後、1883年に亡くなるまでの、31歳から64歳までの33年間、つまり人生のほぼ半分を費やして研究し執筆したものです。
 彼が大英博物館読書室の入館証を手に入れたのは50年6月のことです。読書室で彼はまず『エコノミスト』のバックナンバーを読みつくし、古典経済学の研究に入りました。マルクスはこう述べています。
 「わたしはたいてい朝9時から夜7時まで大英博物館にいる。わたしは扱っている題材はいまいましいほど多くの分野にまたがっているので、いくら張りつめてやっても6~8週間より前に完結することができない」(ヴァイデマイヤーへの手紙)
 現在も大英博物館は熱心な研究者でにぎわっていますが、正面入口からホールを経て突き当たりが円形の読書室で、ここの「G―7」の席がマルクスが好んで座った席といいます。
 彼が大英博物館にこもって経済学研究を進めている56年秋、欧州で国際貨幣市場が恐慌現象を見せはじめます。これが最初の恐慌現象で以後、欧州は幾度も不況に襲われます。とくに73年から96年まで長期にわたって慢性的な不況に苦しめられ、この時代を「大不況」と呼ばれることになります。まさにマルクスはそうした資本主義の苦難の時代に『資本論』を書き上げたのです。
 マルクスは最初の恐慌現象を目の当たりにして歓喜し、57年初めに意を決してペンを取りました。それが『経済学批判要綱』です。ここでは最初に「貨幣の章」を書き、同年春には「資本の章」を書き上げます。ついで秋になり恐慌状態がますます広がると執筆に拍車をかけ、労働価値説、剰余価値論と利潤、本源的蓄積、機械と剰余労働などマルクス経済学の骨格を作りあげていきました。この後、さらに執筆を重ね、こうして登場したのが『資本論』です(第一巻は『経済学批判要綱』などを含めて67年発刊。マルクス没後に第二巻は85年、第三巻は94年にいずれもエンゲルスが編集)。
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 欧州の「大不況」はマルクスにとって資本主義の外皮が破れていく様に写りました。そこで彼は『資本論』で高々と宣言します、「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る」と。
 マルクスの『資本論』について多くの人が勘違いしていることは、彼は経済学を研究しつくした後に「資本主義的私有の最後を告げる鐘」を鳴らしたということです。つまり科学的研究の結果が共産主義(経済学)に行き着いたと思われていることです。
 事実はこの逆で、経済学研究の前に結論として「初めに資本主義打倒ありき」だったのです。目的が先にあり、その目的を合理化、正当化するために『資本論』が著述されたということです。
 これはマルクスの著述に現れた思考の歴史をたどれば一目瞭然でしょう。
 マルクスは最初(ベルリン大・学生時代)、ヘーゲル左派の影響を受け、後にフォイエルバッハの人間主義の立場から、ヘーゲル批判を試み、「宗教は阿片である」として人間疎外からの解放は「プロレタリアートによる私有財産否定」との結論を導き出します(『ヘーゲル法哲学批判序説』1844年)。
 ついでフォイエルバッハの人間主義とも決別し「プロレタリアートこそが真の歴史の創造者」(『フォイエルバッハに関するテーゼ」1845年)とし、さらにそれを徹底して「革命が最も現実的で重要な目標」(『ドイツイデオロギー』1846年)と位置付けて唯物史観を確立します。そして共産主義の平和的改良主義を批判し「革命とは暴力的な闘争」(『哲学の貧困』1847年)と断じ、この後、欧州各国で勃発した1848年革命を鼓舞して「万国の労働者よ、団結せよ」との『共産党宣言』(1848年)を発表します。
 前述したロンドン生活は1848年革命が失敗に帰し、イギリス亡命を余儀なくされた後の話です。このようにマルクスが経済学研究に入る前にすでに『共産党宣言』があったわけです。明らかに『資本論』執筆の動機は『共産党宣言』および1848年革命挫折にあります。
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 1848年革命は欧州全土に広がりながら結局、労働者を団結できずに終わってしまいました(ウィーン体制は崩壊させましたが)。そこでマルクスは資本主義を打倒するために、すべての労働者を団結させて革命に駆り立てる緻密な理論を必要としたのです。労働者がみんなそろって「革命だ!」と言わしめる理論をです。
 なぜかと言うと、資本主義の本場のイギリスでは資本家側から労働者の職場環境の改善が始まっていたからです。たとえば婦女子労働時間を制限した1844年工場法、週60時間の10時間労働制を導入した47年工場法、さらに48年公衆衛生法などが相次いで成立していました(後に70年義務教育法、72年労働組合法、74年争議権実現など)。
 こうした状況は将来、資本家たちが良心的に労働者の賃金を値上げしたり、労働時間を短縮するなど労働条件を少しずつ改善していけば、労働者はこうした一時的な政策にだまされたり、暴力革命を拒否したりする可能性がある、とマルクスは危惧したのです。
 そこで彼は、労働者を資本家や政府のいかなる甘言や説得にもだまされずに、是が非でも革命事業を遂行するように仕向ける必要があったのです。そこで資本主義社会の根本矛盾の暴露を「商品の分析」から始め、その必要に応える理論をマルクスは作り上げたのです。
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 こうして出来上がった『資本論』すなわちマルクス経済学は、(1)労働価値説=商品の価値はその商品の生産に投下された労働(の量)によって規定される、(2)剰余価値論=労働者は自分の報酬に含まれる労働時間(必要労働時間)を越えてさらに労働を強いられ(剰余労働)、そこから生まれた価値(剰余価値)を資本家に搾取されている、(3)資本主義崩壊論=利潤率低下の法則・貧困増大の法則・資本集中の法則によって資本主義は必然的に崩壊する――などから成っています。
 その中身を次回から見ていきましょう。

●資 料
▼『資本論』に対するレーニンの見解
 「経済的構造はそのうえに政治的上部構造が立つ基礎であることをみとめたマルクスは、この経済的構造の研究にもっとも大きな注意を払った。マルクスの主著『資本論』は、近代社会すなわち資本主義社会の経済的構造の研究にあてられたものである。…マルクスの経済理論だけが、資本主義全体の構造のなかでのプロレタリアートの真の地位をあきからかにした」(レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』)

■用語解説
●資本論
 マルクスの経済論について集大成した著作名。マルクスは1857~58年にまず「経済学批判要綱」としてまとめたが、その後の執筆過程(61~63年)で「資本論」という表現が登場し、1867年9月にハンブルクで『資本論』第一巻が刊行された。この初版「序言」において『資本論』が三巻になると記されており、第二巻には「資本の流通過程」や「総過程の諸姿態」など、第三巻には「経済学の理論の歴史」などを収めるとしていた。
 マルクス生存中に刊行されたのは第一巻だけだが、エンゲルスは1890年に第一巻改訂第四版を出版し、これが現在の『資本論』第一巻の基本となっている。第二巻はエンゲルスが85年に刊行、第三巻は94年に同じくエンゲルスによって刊行された。それゆえこれらはエンゲルス版『資本論』と称される。

●マルクス経済学
 労働が価値を生みだすとするスミスやリカードの説を継承して構築された労働価値説を根幹に据える理論で、労働過程の分析に今も有効との立場に立ち、冷戦後も生き続けている。労働の疎外を原点にするマルクスの考えには常に公平観念が介在しており、世界で不公平・不平等が存在する限り、その有効性が論じられる可能性を残している。現代の経済学においては、マルクス経済学は資本主義の矛盾を暴き革命へと誘導する「イデオロギー体系」つまり壮大な観念論もしくは政治論と見られている。その意味でマルクス経済学はイデオロギーとして存続している。