勝共思想・勝共理論

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39,マルクス経済学・14 株式制度で「資本集中」せず

マルクス経済学・14
[キーポイント]
今回はマルクスが資本主義社会の経済法則として打ち出した3番めの法則である「資本集中の法則」です。これまで見てきましたように、資本家は利潤をあげるために次から次に機械を導入し、そのことによって利潤率が低下(利潤率低下の法則)、また労働者の賃金を引き下げることによって貧困が増大(貧困増大の法則)、そして競争に敗れた資本家は没落し彼らの資本も少数の大資本家に集中(資本集中の法則)して、資本主義社会は結局、少数の資本家と大多数の労働者に二極化していくと説きます。その結果、必然的に革命へと誘われていくというのがマルクスの主張です。では、資本集中の法則がいかに間違っているかを探ってみましょう

株式制度で「資本集中」せず
■その主張と批判
 マルクスによれば、資本家たちは利潤を引き上げるために、新しい機械を導入して良質の商品を大量に生産しようと競争することになります。ここにおいて中小企業の資本家は競争に敗れて没落し、彼らの資本は少数の大資本家の手中に集中するようになります。つまり「資本家による資本家からの収奪」が行われることになるというのです。
 これを資本の集中の法則とマルクスは呼びます。なお、それぞれの資本家が剰余価値の一部分を資本に再転化することによって、資本の規模が大きくなることを資本の集積(蓄積)といいます。この資本の集中と蓄積は、からみ合って作用しますので、両者を一緒にして「資本の集積・集中」ともいっています。
 ここで重要なことは、資本の集積・集中にしたがって中間層は没落し、社会は必然的に少数の富める大資本家と絶対多数を占める無産大衆の2つの階級に分裂するところにある、とマルクスは強調します。つまり資本主義社会は必然的に「資本の蓄積に対応する貧困の蓄積」になるというのです。はたしてそうでしょうか。
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 たしかに資本の集積は見られます。マルクスが『資本論』を著した19世紀後半以降、資本主義社会で資本の集積、いわゆる独占資本が登場したのは事実でしょう。19世紀末の「大不況」時代を経て、20世紀に入ると、とくに自由競争そのものを制限して利益を独り占めしようという動きが強まり、カクテル(企業連合=企業同士で生産量や価格の協定を結ぶ)やトラスト(競争を排除するため企業を合同化したり株を買収して支配権を獲得する)、あるいはコンツェルン(銀行や巨大企業がいくつかの企業の株を買収したりして傘下に入れる)が登場します。
 こうした動きは、しばしばアメリカ型とドイツ型にわけられて論じられます。
 アメリカでは反独占運動が国民各層からわき上がり、独占禁止政策が採用されて公正な取引、公共の利益が重んじられ、企業の方も競争力の増強を目指して「垂直統合」(原材料の採掘・生産から製品の販売といった一貫性ある統合)に努め、その結果、技術開発、製品開発に画期的な前進をみました(これをアメリカ民主主義の勝利と称される)。
 これに対してドイツではそうした反独占運動が起こらず、企業は「水平結合」(同種産業同士の結合)で市場占有率を高め競争を排除する手法、つまり競争制限戦略で発展しようとしました。その結果、健全な競争が生まれず独占資本が政治と結合してナチズムに至ったことは周知のとおりです(戦前の日本もドイツ型と言えます)。
 第二次大戦後の資本主義は、ほぼアメリカ型で推移しているといえますが、ではアメリカ型の資本主義下で「資本の蓄積に対応する貧困の蓄積」、つまり資本のすべてが少数の資本家の手中に集中し、そして圧倒的多数の人々が貧困層へと陥れられる現象が生じたでしょうか。結論からいえば、どちらもノーです。
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 現実の資本主義社会では資本の集中に際して採られたのが、株式方式です。会社を大きくするためには工場を建設したり機械を購入する資本が必要となるわけですが、株式会社は多くの株主が共同出資してその資本を供給し、出資者はその投資額に応じて利益の配分にあずかるという制度です。したがって企業の財産は個人のものではなく法人として共同の所有となりました。したがって資本は少数の個人にすべて集中したのではなく、逆に大衆化されて多くの人々の共同所有となったのです。
 たとえば、アメリカのAT&T(アメリカ電話電信会社)を見てみましょう。同社は1901年時点で株主数は1万人に過ぎませんでしたが、1931年になると実に64万人の株主を擁するようになりました。これらの一般株主がAT&Tの自己資本の大部分を供給しており、最大の筆頭株主でも株式持分のわずかに0.7%を占めるにすぎませんでした。最大株主20人の持分を合計しても、4%にすぎなかったといいます(生駒道広著『経営学の歩み』同文舘)。
 アメリカのほとんどの企業はAT&Tのように多くのアメリカ国民の個人投資家に支えられていました。アメリカでは一般投資家個々人の持株は小さくとも、株式が広くアメリカ国民に広がっており、その人数がきわめて多いために、産業資本の大部分を占めるに至ったのです。
 このように大企業は一見、資本の集中のように見えますが、その中身は個々人が集まったところの集中なのであって、マルクスが“予言”したような少数の資本家への集中とはまるっきり正反対となっているのです。
 つまり、資本主義の発展、言い換えると株式会社の発展は一般投資家の株式数の増加という形で現れたのでした。
 こう言いますと、最近では機関投資家がいるではないか、彼らがアメリカのみならず世界の株式市場を牛耳っているではないか、だからマルクスの予言どおり資本は集中していると主張する人がいるかもしれません。たしかに主要な大株主の大半は機関投資家ですが、機関投資家とは生命保険や企業年金基金、あるいは商業銀行信託部、投資信託などを運用しているものを指すのであり、したがってもともとの資金は広く一般大衆から出されていることを見落としてはなりません。
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 貧困の蓄積についてはすでに前回批判しました。19世紀から今日に至るまで、貧困の増大の法則なるものはまったくの間違いであって、実質賃金においても労働時間においてもいずれでも労働者は豊かになったのが事実でした。それは製造業(第二次産業)の発展に伴ってサービス産業(第三次産業)が飛躍的に伸び、社会全体が豊かな消費者を必要とする社会へと発展していったからです。つまり、膨大な有産大衆の中間層が出現したのです。 マルクスは中間層が没落し、少数の資本家と大多数の無産労働者に社会が二極化し、前者のブルジョアジーに対して後者の「失うのは鉄の鎖だけ」(『共産党宣言』)だというプロレタリアートが立ち上がって革命に至ると考えましたが、有産大衆の中間層には革命はまったく必要ないものだったのです。
 これに対してマルクスの予言がそのとおり当てはまったのが、レーニン以降に作られた社会主義国と言っても過言ではないでしょう。まさに資本は一極に集中(国有企業)し少数の資本家ならぬ共産党特権階級が利益を独占し、中間層はプチブルとして収奪されて無産階級へと落とされ、圧倒的な貧困層が形成されました。ですから、こういう社会こそ「労働者を立ち上がれ」と叫ばねばならないでしょう。
 マルクスの予言がマルクス社会のそれであったのは何とも皮肉です。

■批判のポイント
●資本主義社会は発展すればするほど資本は集中しない
 資本主義社会では大企業が巨大化していく傾向があるが、だからといって少数の資本家に資本が集中することにならない。企業の大部分が株式会社であり、多くの株主たちが共同出資して生産手段を共同所有しており、資本は少数の資本家に集中せずに逆に多数の資本家(投資家)に分散している。

●個人投資家が株式市場を左右している
 さる7月8日に日経平均株価が1万円台に回復、8日の東京株式市場では東証一部の出来高が17億5千株とバブル期を上回る大商いとなったが、その原動力は個人投資家だった。個人投資家の全売買高に占めるシェアも1位(34%、2位は証券会社の自己売買部門)で、個人投資家の株式市場での影響力の大きさを示した(日本経済新聞03年7月9日付)。少数の大資本家に資本は集中していない。

●経済学者・村上泰亮氏の「新中間大衆」の概念
 総理府の国民生活調査で「生活程度が中」と答えた人が1960年代後半に9割弱に達して「1億総中流化」と呼ばれた。高度経済成長に伴って国民の生活水準が飛躍的に上昇すると、それ以降、中流階級の輪郭が曖昧となり「新中間大衆」が登場したと村上氏は指摘した。マルクスが没落するとした中流階級(地主や商工業者)はたしかに没落したが、これに代わってホワイト・カラーが中間層として登場した。日本でも少数の大資本家と多数の労働者の構図はない。

●利益配分では株主(資本家)よりも設備投資や従業員が重視される日本の経営者の意識傾向
 日本経済新聞の「株主に対する社長の意識調査」(874社)によると、収益の優先的配分先として設備投資・株主・従業員の3つを上げて優先順位を問うたところ、設備投資を第1位にあげたのが55%、従業員が19%、株主が18%で一番低かった。株主は従業員よりも低く評価されており、資本家の立場を象徴しているといえる(日本経済新聞91年5月8日付)